1.受難節を覚える。
・今週から受難節が始まる。受難節は4旬節(レント)とも言われ、復活日(イースター)から数えて、40日前から、イエスの十字架を覚える時だ。6回の主日を除いた40日前の水曜日が灰の水曜日(悔改めの日)と呼ばれ、この日から受難節が始まる。今年は先週の3月5日が灰の水曜日で受難節の始まり、イースター前日の4月19日がその終わりだ。40日間の期間が定められたのは、イエスが荒野で40日間悪魔に試みられ、苦しまれたことを記念する。そのため、受難節第一主日には伝統的に福音書から「荒野の試み」の個所を読む。今日はルカ福音書を通して、この荒野の試みの意味を考えてみたい。
2.これらの石をパンに変えてみよ。
・悪魔はイエスに三つの試みを行っている。第一の試みは「石をパンに変えてみよ」との誘いである。イエスは40日の断食の後に、空腹になられた。悪魔はささやいた「お前は神の子であり、神の子であれば人々を救うために来たのであろう。今、多くの人々が今、パンが無く飢えに苦しんでいる。もし、おまえがこれらの石をパンに変えれば彼らの命を救うことができるではないか」とのささやきである。人々はパンを求めていた。ガリラヤ湖のほとりで食べるものもなく話を聴く人々をイエスは憐れまれ、5千人の人々にパンを与えられた。パンの奇跡に感動した人々はイエスを自分たちの王にしようとしたが、イエスはこれを拒否された(ヨハネ6:14‐15)。
・地上に神の国を造ろうとする運動は歴史の中に多くある。共産主義はある意味で、貧しい人々にパンを与えようと言う運動であった。社会の不正構造が人々の口からパンを奪っていると考えた彼らは革命を起こし、理想の社会を作ろうとした。しかし、ソビエトや北朝鮮を見てもわかるように、出来上がった社会は怪物のような全体主義国家だった。フランス革命も世の不正を正すために人々が立ちあがった運動であったが、結果は血で血を洗う権力闘争に終ってしまった。このことは、人間が自分の力でこの世の理想の国を作ろうとする時、それは悪魔の試みに従う行為であると言うことを示す。「人はパンだけで生きるのではない」、つまり、神によって生かされていることを知らない限り、人間同士は争い続け、平和は与えられないことを歴史は教える。
3.世の支配権をあげよう。
・次に悪魔は誘う「あなたが私にひれ伏すならば、この世の支配権をあげよう」。彼は言う「今、人々はローマの支配に苦しんでいる。あなたがこのローマの圧制から人々を解放すれば、ここに神の国ができるのではないか」。人々がイエスに求めていたのは、ユダヤの王となってローマからの独立を勝ち取ることであった。
・イエスの時代、多くのメシヤ(救済者)と自称する者が立ち、ローマに抵抗を試みた。紀元66年熱心党がローマに対する武力蜂起を行い、人々を誘った。「武器の力を持ってローマを制圧し、エルサレムの神殿を全世界の中心となし、イスラエルに世界支配を許す神の奇跡に信頼しよう。その時、天からマナが降るであろう」。イスラエル全土が熱狂的にこの運動に加わり、独立を目指すユダヤ戦争が始まる。一時はエルサレムからローマ軍を追放し、独立政府を作るが、結局はローマに制圧され、紀元70年にエルサレムは破壊され、神殿も燃えて、国は滅びた。この戦争の熱狂に、生まれたばかりの教会は参加せず、エルサレムを脱出した。イエスが言われたように神の国は武力によっては生まれないことを知っていたからだ。この世の支配権をあげようという悪魔の誘惑に従った人々は、国を亡くしてしまった。
4.神の子であるしるしを見せてみよ。
・第三の誘惑は神殿の屋根から飛び降りてみよとの誘いであった。「おまえが神の子であれば、神が守ってくださる。今、この屋根から飛び降りて、神の子であるしるしを見せれば、多くのものが信じるだろう。そうすれば容易に神の国を造れるではないか」とのささやきである。人々はイエスに繰り返し、しるしを求めた。律法学者やパリサイ人はしるしを見せてくれれば信じようと言ったが、イエスは拒否された(マタイ12:38-40)。人々は十字架のイエスをののしって言った。「神の子なら自分を救え。そして十字架から降りて来い」(マタイ27:40)。もし、イエスが十字架から降りられたら何が起こったのだろうか。人々はしるしを見て恐れ惑い、イエスが神の子であることを認めたかも知れない。しかし、それ以上のことは起こらなかったであろう。イエスは十字架上に死なれ、そして復活された。弟子たちは復活のイエスに出会うことにより、イエスが神の子であった事を知らされ、神の子が自分たちの罪のために死なれたことを知り、変えられていく。人はしるしを見て変えられるのではない。神が自分を愛され、そのために行為されたことを知るときに、初めて変えられていくのだ。
・十字架で死なれた方を神とする教えが何故、人々の心を捉えたのか。復活のイエスに出会って変えられた使徒の生き様、イエスが背負われたように自分たちも十字架を背負って死のうとした弟子達の生き様に、人々が感動したからである。もし、イエスが悪魔の誘いに乗って十字架から降りられたら、その後の教会は形成されなかっただろう。
5.誘惑物語から見えてくること。
・三つの誘惑は共通項がある。与えられた力を使って、この地上に神の国を作れとの誘いである。「お前は石をパンに変える力を与えられた。民衆にパンを与えれば、彼らは喜んでおまえを王にするであろう。お前はローマを倒す力を与えられた。ローマを倒してイスラエルを独立国にしたら民衆は喜ぶではないか。お前は奇蹟を起こす力を与えられた。奇跡を起こせば、人々はおまえに従うではないか」。神の子であればその力を使え、十字架で無力に死んでも何も生まれないではないかとの試みである。イエスご自身も、十字架に死ぬことに迷っておられたことは事実であろう。「父よ、御心ならば、この杯を取り除けてください」とのゲッセマネの祈りがそれを示している。イエスの中にも迷いがあった。しかし、イエスは試みを通して、それが父なる神の御心であることを示され、従われた。イエスが選ばれた道は、十字架に死ぬことによって、私たちを生かす道であった。王になる代わりに、人々のために死ぬ。この十字架の愚かさと偉大さを荒野の誘惑は私たちに示す。
・同時に、イエスを荒野に導かれたのは、神ご自身であったことを私たちは知ろう(ルカ4:1「御霊に引き回されて」)。今日の招詞に詩篇119:71-72を選んだ。「苦しみにあったことは、私に良い事です。これによって私はあなたの掟を学ぶことができました。あなたの口の掟は、私のためには幾千の金銀貨幣にもまさるのです。」
ここにも試みに会わせられる方は神であると証言する詩人がいる。しかし、彼はその試みを憎んでいない。人は試みに会い、それに動揺し、無力にされることによって、初めて神を求め、その時に神と出会うことを知っているからだ。
・イエスは試みの中で最後まで、ご自分の力を用いようとはされなかった。ある人は言う「キリスト者にとって最大の誘惑は、試みに会った時、自分で勝とうとする、また勝ちうると思う、更には勝たねばならないと思う時だ」と。カトリックは、祭司は独身であり、肉欲に打ち勝たなければいけないと勧める。プロテスタントは信徒に禁欲を勧め、それが清くなることだと言う。しかし、人が自分の力で試みに勝とうとする時、そこに罪が生まれる。自分の力で勝てると思う者は、誘惑に負けた他者を裁く。人が自分で試みに勝とうとする時、人は神から離れるのだ。試みに負けて打ちのめされ、どうしていいかわからなくなる、その時人は始めて神を求め、神に生かされている自分を見出すと聖書は教える。
・いろいろな試みがあろう。ある人は重い病を与えられる。ある人は事業の失敗という挫折を与えられる。ある人は家庭の不和という苦しみを与えられるだろう。しかし、苦しみの中で祈り、その祈りを通して、試みが私たちを神のもとに導くためのものであることを知らされた時、苦難や挫折の意味が変って来る。ヘブル書が言う通り、試みこそが私たちを神へ、そして救いに導くのだ。
「私の子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受けいれる全ての子を、むち打たれるのである」(ヘブル12:5‐6)。