1.篠崎キリスト教会の原点としてのヘブル書
・篠崎キリスト教会の第一歩は、1969年11月6日の新小岩バプテスト教会・篠崎伝道所の第一回礼拝であった。当初は教会堂もなかったため、現在の下篠崎町にある篠崎文化館の一室を借りて礼拝がなされた。その礼拝の時、読まれたテキストがヘブル書11章である。その後、宮地牧師が招聘され、新小岩教会から株分けとして17人の人が派遣されることになり、1971年6月27日に牧師就任・信徒派遣式が行われたが、その式で読まれた聖書も同じくヘブル書11章であった。ヘブル書は当教会にとって原点とも言うべき書である。
・ヘブル書は紀元80年頃に書かれた手紙だと言われている。イエスが十字架で死なれたのは紀元30年頃であるが、その後イエスをキリストと信じる人たちが教会を形成していく。しかし、生れたばかりの教会は、最初はユダヤ教からの、次にはローマ帝国からの迫害で、多くの人々が殉教していった。また、人々はキリストが再び来られて神の国がこの地上に築かれることを待望していたが、50年経っても再臨はなく、逆にユダヤはローマに滅ぼされ、ユダヤ人は国をなくした流浪の民として散らされていった(紀元70年、ユダヤ戦争)。人々の信仰は動揺し、「本当に神はおられるのか、本当にイエス・キリストは救い主だったのか」という疑いを持つようになった。そのような人々を励まし、固く信仰に立って、神の約束を待ち望めと励ました書がこのヘブル書である。
・新小岩教会の立石牧師が篠崎伝道所の第一回礼拝のテキストとしてヘブル書11章を選ばれたのも、伝道所を設立し、宣教を開始するにあたり、いろいろの困難がこれから来る、信仰が揺さぶられるような挫折や失望もあるだろう、その中で主の約束を信じて耐え忍べとの思いをヘブル書に託されたのではないかと思う。それから33年の時が経ち、与えられた牧師が辞任して無牧の時もあったし、信徒が散らされるような出来事もあった。しかし、教会は神の守りの中にあって、一回も礼拝を休むことなく今日に至っている。今、改めて、このヘブル書から、神が私たちに何を伝えようとされているのか、共に御言葉に聞きたい。
2.信仰の先人たちを見よ
・ヘブル書11章は信仰の定義から始まる。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することである」(11:1)。「望んでいる事柄を確信する」とはあなた方に救いを与えるとの神の約束に信頼し、「まだ見ていない事実を確認する」とは救いの最終地点としての神の国を望み見ることである。手紙が書かれた当時の教会の情況を反映していると思われる言葉が11章35-38節にある。「ほかの者は、更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった。なおほかの者たちは、あざけられ、むち打たれ、しばり上げられ、投獄されるほどのめに会った。あるいは、石で打たれ、さいなまれ、のこぎりで引かれ、つるぎで切り殺され、羊の皮や、やぎの皮を着て歩きまわり、無一物になり、悩まされ、苦しめられ、荒野と山の中と岩の穴と土の穴とを、さまよい続けた。」
・キリスト者であるという理由で、人々が殺されていく。信仰を持ってもこの世では何も報われない、むしろ苦難だけが重くのしかかる情況の中で、何が救いなのかと人々の信仰は揺らいだ。このような信仰の揺らぎは現代のもある。長い間熱心に教会を支えてきた人が、突然の事故で命を奪われることもある。聖書の教えに従い、正直一筋に商売に励んでいた人が、不渡り手形をつかまされて、事業が一夜にして崩壊するという出来事があるかも知れない。それ以上に、信仰を持つことにより、苦しみを負うということもある。例えば、今日の日本においては、公共工事を受注する為には、県や市の有力者に賄賂を贈らなければ難しいとの現実があることを私たちは知っているが、建設会社の社員が信仰を持った時、そのようなことは出来なくなるだろう、何故なら神がそれを許さないことを知っているからだ。もし私たちが、出世したり、世に迎えられることが望みであるならば、私たちは信仰を捨てなければならない。ある時、この世に従うか神に従うかの選択を迫られる時が来る。神に従うとは十字架を負うことだ。負わなくとも良い十字架を負うことである。逃げることが出来るのに逃げずに、避けることが出来るのに避けずに、現実を直視し、受け入れていくことだ。その時、世界が神の言葉によって成っていること、その中で自分が生かされていることを知る。十字架を負わない人はそれを知ることが出来ない。
・信仰者であれば、信仰が揺らぐような出来事を経験しなければならない。それにも関わらず、いやそれ故にこそ、教えられた信仰に固く立ちなさい、何故ならば、そのように苦しむのはあなた達だけではなく、多くの先人たちが苦しみの中で信仰を貫いてきたからだとヘブル書は言う。
・4節からその信仰の先人たちが列挙されている。最初がアベルだ。アベルの物語は創世記4章にある。アベルは羊飼いで、群れの初子と肥えたものを神に献げた。兄のカインは農夫で、地の産物を持ってきて神に献げた。神はアベルの献げものを受け取られ、カインの献げものは受け取られなかった。そのため、カインは逆上してアベルを殺した。アベルは殺されたが、神はアベルの血の叫びを聞かれた。アベルの無念の叫びを神は知っておられるとヘブル書は言う。私たちが全力を尽くしてこの世を生き、例え世がそれを顧みることがなくとも、神は私たちを顧みて下さると言うのだ。
・エノクは創世記5章に出てくる。「エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった」(創世記5:24)。エノクは正しい人であったので、死を経験することがなかったと聖書は伝える。このエノクの末からダビデが、そしてイエス・キリストが生れている(ルカ3:37)。
・7節からノアの記事だ。ノアは洪水が来ると告知された時、その言葉を疑うことなく信じ、箱舟を作った。世の人々はノアの行為を愚かなことと嘲笑した。しかし、神の言葉を信じなかった人々は洪水によって死んだ。
・8節からアブラハムの出来事が記されている。アブラハムはメソポタミヤのハランに住んでいたが、神から「受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った」(ヘブル11:8)。何処に行くかを知らずに出発した、ここに信仰がある。神が導き給うとの約束を信じたから不安はなかった。約束の地カナンにおいて、生前の彼は一片の土地も持たず、寄留者として過ごしたが、土地を与えるとの約束を疑わなかった。また、アブラハムの妻サラは子を与えると約束されたが長い間子は生れなかった。年を取り、月のものが無くなっても、子を与えるとの神の約束を信じ続け、90歳の時に息子イサクを産んだ。そのイサクからヤコブとエソウが生まれ、ヤコブから12人の子が生まれ、やがてイスラエルの12部族が形成されていく。
・13節から、これまでの記述が振り返られる。信仰の先人たちはみな、約束の成就を見なかった。アブラハムは約束の地に招かれたがそこに領地を与えられたわけではなく、生前は寄留者、旅人に過ぎなかった。土地が与えられなかったにも拘わらず、彼ははるかにそれを望み見て喜んだ(11:13)。イスラエルが約束の地を領有するのは、それから500年後のモーセの時である。「あなたを大いなる国民の基にしよう」(創世記12:2)という約束はアブラハムの生前には実現しなかったが、後になって成就された。
・彼らはその約束の成就を見なかったが、その望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を遠くに望み見て喜んだ。今、迫害の中で苦しみ、動揺している友よ、あなたは一人ではない、あなたはこのような信仰の先人と共にいるのだとヘブル書は語りかける。
3.約束の地を目指して
・今日の招詞はヘブル書12:1-2である。
「こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。」
・今、私たちの生は苦難の中にあるかもしれない。しかし、私たちは一人ではなく、多くの先人たちが歩んでいる道を歩んでいるのだ。先人たちが約束のものを受けたことは歴史が示しているではないか。モーセがイスラエルの民を率いて、約束の地を目指して荒野を旅したように、私たちも今、主キリストに率いられて約束の地を目指して歩んでいる。私たちの約束の地はこの地上にはない、それは天にあるふるさとだ。約束の地が地上にないから、この地上で私たちは苦難を受ける。しかし、その先には平安がある。神は私たちのために天に場所を用意されている。だから疑うことなく、主イエスの後に従って、この競争を走りぬこうではないかとヘブル書は呼びかける。
・私たちが信仰の祖と呼ぶアブラハムは、神の呼びかけに従い、そのところから出て行った。しかし、出て行った彼には様々の失敗が待っていた。彼は道徳的には許しがたい多くの罪も犯した。決して私たちの手本になるような品行方正の人ではなかった。にもかかわらず、彼は神の約束にしがみついていった。アブラハムは失敗しても罪を重ねてもなお、神の約束に頼み続けた。だから信仰の父と呼ばれたのである。
・私たちの篠崎キリスト教会は今日創立33年を迎えた。33年間の歩みの中に、反省すべき点、悔改めるべき点も多くあるだろう。多くの失敗を犯したし、また罪も犯した。教会の牧師や信徒の有様を見て、失望して教会を去っていった人もいるかもしれない。しかし、信仰の世界では失敗を恐れる必要はない。大事なことは失敗しないことではなく、従うことである。何もしない人は失敗しない代わりに従うこともしないのである。篠崎教会はキリストに従い続けてきた。約束の実現を望み続けて来た。それこそが今日、私たちが知らなければいけないことだ。モーセに率いられたイスラエルの民は40年の時を経て、約束の地にたどり着いた。私たちも33年の歩みを終え、40周年に向かって歩み続ける。新しい祝福が私たちに与えられるであろうことを私たちは疑わない。