1.まさか、私では。
・イエスは日曜日にエルサレムに入られ、水曜日の夜はベタニヤ村で食事をとられた。明くる木曜日は過ぎ越しの祭りの最初の日、ユダヤ人たちはその日に種無しのパンを食べ、子羊を屠って食べる慣わしであった。そこで、弟子たちはイエスに尋ねた、「先生、今日は過ぎ越しの食事を祝う日です。どこで食事をする準備をしましょうか」。イエスは言われた「エルサレムであなたたちと食事をする為に既に部屋をお願いしてある。そこに行って準備をしなさい」。こうしてペテロとヨハネが準備をする為に先に行き、日が暮れた後、イエスと他の弟子たちがその家に行った。
・それが、イエスが地上で弟子たちと取られた最期の食事であった。その最期の晩餐の席上でイエスは言われた、「あなた方の一人が私を裏切ろうとしている」。弟子たちは一人一人言い始めた「まさか、私ではないでしょうね」。レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画「最期の晩餐」で有名な場面である。私たちはイエスを裏切って祭司長たちに引き渡したのはイスカリオテのユダだと知っているので、この弟子たちの言葉は異様に聞こえる。何故弟子たちは「あなた方の一人が私を裏切ろうとしている」とイエスが言われた時に、うろたえて「まさか、私では」とお互いに顔を見合わせたのだろうか。やましいところがなければ憤慨して「私ではありません」と言うのではないのか。弟子たちがうろたえた理由は、弟子たちの気持ちの中にイエスに失望し、離れていこうという気持ちがあったのではないか。今日は、弟子たちのこの言葉を手がかりに最期の晩餐の出来事を共に学んで見たい。
2.過ぎ越しの食事としての最期の晩餐
・ユダヤ人にとって、最も大事な出来事は過ぎ越しだ。神はかってイスラエルの民がエジプトで奴隷であった時、その御手を伸ばしてエジプト人を打ち、イスラエルを解放してくださった。イスラエルを滅びから「過ぎ越して」下さった救済の行為に感謝するのが過ぎ越しの祭りであり、祭りの最初の日には犠牲の子羊を屠り、種(酵母)を入れずに焼いたパンを食べて、この出来事を思い起こす。その過ぎ越しの食事をイエスは今、弟子たちと取ろうとしておられる。
・イエスはあらかじめ食事をする部屋を準備され、夕暮れになった時、弟子たちと用意された場所に行かれた。一同が席について食事をしている時にイエスは言われた「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたの中のひとりで、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」(マルコ14:18)。私たちは既にイスカリオテのユダがイエスを裏切る行動を始めたことを知っている。「時に、十二弟子のひとりイスカリオテのユダは、イエスを祭司長たちに引き渡そうとして、彼らの所へ行った。彼らはこれを聞いて喜び、金を与えることを約束した。そこでユダは、どうかしてイエスを引き渡そうと、機会をねらっていた。」(マルコ14:10-11)。
・他の弟子たちもイエスの最期の時が近づいていることに薄々気付き始めている。しかし、彼らはユダと違いイエスを裏切る行為をしているわけではない。それなのに何故、心を騒がせて「まさか、私では」と問い掛けるのだろうか。それは彼ら自身もイエスを裏切りかねないと心のどこかで気付いているからだ。事実彼らもイエスを裏切る。晩餐を終えた後、一行は祈る為にオリーブ山に行くが、そこでイエスは「あなた方はみな私につまずくだろう」と言われる(14:27)。つまずく、即ちイエスを見捨てて逃げると言う意味だ。それに対して弟子たちは憤慨して言う「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません。」(14:31)。やがてユダが神殿兵士たちを連れて、イエスを捕まえようとして来た時、弟子たちはすべて「イエスを見捨てて逃げ去った」(14:50)。
・イスカリオテのユダはイエスを既に裏切る決意を決めているが、ペテロやヨハネもこれからイエスを裏切るのだ。イエスから問われて弟子たちは自分たちの中にイエスを裏切りかねない弱さを持っていることに気付いた。だから心が動揺して「まさか私では」と問い掛けたのだ。
・歴史的に言えば、イエスを十字架にかけたのはユダヤ人指導者たちであり、ローマの軍隊だ。ユダヤの祭司長たちは彼らの宗教的権威に従わず、民衆に新しい教えを説くイエスを異端者として排除しようとした。ローマ人たちは占領地ユダヤの民衆を惑わし、治安を乱すものとしてイエスを排除しようとした。イスカリオテのユダはその動きに積極的に関与した。他の弟子たちはイエスを見捨てることで消極的に関与した。イエスを十字架につけたのはユダであると同時にペテロやヨハネの弟子たちであり、彼らもユダと同罪なのだ。ただ、大きな違いは裏切った後でどうしたかである。ユダは自分が犯した罪の結末を自分でつけようとして自分の首をくくった(マタイ27:4-5)。ペテロやヨハネは自分たちの犯した罪におののいて泣いた(マタイ26:75)。そして復活のイエスに出会い、赦しを受けて新しく弟子として立ち上がっていった(ヨハネ20:21-23)。
3.罪人であることを知る
・救いとは、神が既に自分を赦されていることを知ることであり、その第一歩は自分が罪人であることを知ることだ。私たちもイエスの十字架に直面したら、同じ様にイエスを捨てて逃げるであろうことを知ることだ。今日の招詞にヨハネ8:10-11を選んだ。イエスが姦淫を犯した女を赦される場面である(新約聖書150頁)。
「そこでイエスは身を起して女に言われた、『女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか』。女は言った、『主よ、だれもございません』。イエスは言われた、『わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように』」
・律法学者たちはイエスを罠にかけるために、姦淫の現場で捕らえた女を連れて来た。「この女は姦淫を犯しました。律法ではこのような女は石で撃ち殺せと教えますが、あなたはどうされますか」。イエスは答えられた「あなた方のうちで罪に無い者が先ずこの女に石を投げなさい」。姦淫とは邪まな思いで異性を見ることであり、そのような思いは人間であれば誰にでもある。新宿や池袋の繁華街に林立する風俗店の多さは人間の罪を示す。誰も女に石を投げることは出来ず、いなくなってしまった。イエスもまた女を赦された「私もあなたを罰しない、でももうしてはいけない」。このように命を赦されたものはもう同じ罪を犯せない。
・イエスがペテロやヨハネを赦されたのも同じだ、「あなた方が私を捨てて逃げ去ったのは当たり前だ。人間は弱いのだ。でも、もうしてはいけない」。彼らはやがてイエスに倣って十字架で死んでいき、その殉教の死を見て、多くの人々が、イエスが神の子であることを信じ、教会が生まれていった。
・三井物産の社員がモンゴルの発電所建設をめぐってモンゴル政府高官に賄賂を贈った罪で逮捕された。彼は思うであろう「何故、私だけが逮捕されるのか。途上国で商売をしようとしたら、相手国政府の高官にお金を送るのは必要悪だ。タイでもインドネシアでもやっているではないか。何故、私だけが」と。私たちも同じことが、他の国で、また他の商社によって為されていることを知っている。丸紅はナイジェリアへの印刷機納入にからみ同国に数億円の賄賂を支払ったとして税務告発されているし、三菱商事も中国の発電所建設で国税庁から追徴課税されている。それでも彼は悪いことをした。それはみんながやっているからと免罪される出来事ではない。「みんながやっているのに何故私だけがが処罰されるのか」と彼が思っている間は、彼には救い、心の平安はないであろう。みんながやっているかどうかに関わりなく、自分は罪を犯したとしてひざまずく時に初めて「私もあなたを罰しない」という声が聞こえてくるのだ。
・イエスを十字架につけたのはイスカリオテのユダだけでなく、ペテロやヨハネもそうなのだ。それを認め、悔改めて、赦しを待つことにおいてのみ、救いが与えられる。イエスはユダが悔改めて戻ることを期待された。だから最期の晩餐の席上であえて「私を裏切るものがいる」と呼びかけられたのだ。そしてユダに対して、「人の子を裏切るその人は、わざわいである」と言われた(マルコ14:21)。日本語ではこの言葉はイエスがユダを呪われているように聞こえるが原文のニュアンスは異なる。「わざわい」と言う言葉は「私は悲しい」「私は痛む」と訳したほうが良い言葉だ。イエスはユダが滅びるのを痛みに感じておられるのだ。21節の後半の言葉「その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」という意味も呪いではなく警告だ。この言葉を聞いてユダがこれからしようとしている悪に良心のとがめを感じて欲しいとイエスは思っておられるのだ。イエスは自分の無事なことよりも自分を殺そうとしている者の行く末を案じておられるのだ。しかしユダはイエスの招きを拒み、過ちを自分で解決しようとして自殺していった。ユダの罪はイエスを裏切ったことではなく、イエスの赦しを拒んだことだ。もし,ユダがイエスの前に跪き、罪の赦しを願ったならばイエスはユダを赦されたであろう。何故ならイエスはユダの為にも死なれるのだから。
・イエスはマルコ3:28-29で次のように言われている「人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」。その意味は全ての過ち、例えヒトラーのような罪さえも赦され得る。しかし、唯一赦されないのは、赦そうとされる神の招きを拒むことだ。ユダと他の弟子の違いはただその一点にあるのだ。
・イエスを十字架につけたのは、ユダヤ教指導者であり、ローマ人であり、弟子のユダでもあったが、同時に後に使徒と呼ばれるようになったペテロやヨハネたちでもあったのだ。ペテロやヨハネがそうしたとすれば他ならぬ私たちもそうするであろう。「まさか私では」という問いに対し聖書は「あなただ、あなたがイエスを十字架にかけたのだ」と言う。聖書を自分たちに向けて語られている言葉として読むとき、聖書の言葉は力を持って私たちに迫って来る。そして、そのような私たちが、姦淫を犯した女が赦されたように、罪あるままに赦され、もうしてはいけないと諭された時に私たちの生き方は変ったのだ。教会はイエスの教えを守る正しい人たちの集まる場所ではなく、自分が罪人であることを知り、泣いて赦され、新しい生き方を探し始めた人たちが集まる場であることを最期の晩餐の出来事を通して教えられた。