江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2002年9月8日説教(マルコ14:1-9、何故こんなに、無駄遣いをするのか)

投稿日:2002年9月8日 更新日:

1.ベタニヤ村での出来事

・イエスは公生涯の大半をガリラヤで宣教され、エルサレムに入られたのは、死なれる1週間前である。最後の週の日曜日にイエスはエルサレムに入られ、昼は神殿で人々に教えられ、夜はエルサレム郊外のベタニヤ村で泊まられていた。この村にはラザロとその姉妹マルタ、マリヤが住んでおり、イエスはこれまでにも訪れておられる。過ぎ越しの祭りの2日前、即ち水曜日の夜、イエスはベタニヤ村のシモンの家で食卓についておられた。その時、一人の女が香油を入れた石膏の壷を持ってその部屋に入り、壷を壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。部屋の中は香油の香りで一杯になり、人々は唖然とした。香油は非常に高価なものだったため、人々は言った「何故こんなに、無駄遣いをするのか」、それに対してイエスは言われた「この女は出来る限りのことをしてくれたのだ。私の体に油を注いで葬りの用意をしてくれたのだ」と。
・この出来事は「ナルドの壷」、あるいは「ベタニヤでの油注ぎ」として有名で、賛美歌にもなっている(賛美歌391番)。四つの福音書全てに物語の記事があるが、これは非常に珍しい。弟子たちにとってこの物語がいかに印象的であったかを示している。今日はこの物語が私たちに何を語りかけてくるのかをご一緒にお聞きしたい。


2.後先を考えない女の行為

・この物語が起こったのは水曜日の夜、イエスが捕えられる前の晩である。祭司長たちや律法学者たちはイエスを捕えて殺そうと図っていた(マルコ14:1-2)。12弟子の一人、イスカリオテのユダはイエスを裏切る機会を狙っていた(マルコ14:10-11)。イエスは最後の時が近づいていることを感じておられた。
・そのような時、一人の女が夕食の席にナルドの香油を入れた壷を持ってきて、壷を壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。原料はヒマラヤに生えるナルドという植物から取られるもので、このナルドの香料をオリーブ油に混ぜて使う、だから香油と言う。通常は一滴、二滴をたらして香水として体に塗ったり、埋葬の時に遺体や着物に塗る。価格は300デナリ以上もし、1デナリが労働者1日分の賃金であるから、今日のお金で数百万円の価値がある高価なものだった。そのナルドの香油を入れた石膏の壷を女は壊し、イエスに注いだとある。女は壷の蓋を開けて数滴をイエスに注ぐことも出来た。蓋を開けて注げば数量は加減できる。それなのに女は壷ごと壊してしまった。もう全部を注ぐしかない。見ていた人たちは女の愚かさにあきれ、腹を立てた「なんのために香油をこんなに無駄にするのか。この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人たちに施すことができたのに」(マルコ14:4-5)。
・この女性は誰だったのだろうか。ヨハネはこの女性は「ベタニヤのマリヤ」だったと言う(ヨハネ12:3)。ルカはこの女性を「罪の女」と表現した(ルカ7:37)。マルコは女性の名前を記さない。恐らくは以前にイエスに病を癒してもらった女性が、イエスが今シモンの家におられる事を聞き、全財産をはたいてナルドの香油を求め、持参して献げたものと思われる。女性の行為は愚かである。しかし、彼女は自分の感謝の気持ちを表すために持っている全てを投げ出してイエスに献げたかった。だから損得抜きに香油を求め、後先を考えずに全てを注いだ。イエスはこの女性の気持ちを受け入れられた。「何故こんなに、無駄遣いをするのか」と女をとがめる人々に対してイエスは言われた「するままにさせておきなさい。なぜ女を困らせるのか。私に良い事をしてくれたのだ。貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでも、良い事をしてやれる。しかし、私はあなたがたといつも一緒にいるわけではない。この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、私の体に油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。」(マルコ14:6-8)。
・今、祭司長たちはイエスを殺す計画を立て、弟子の一人であるユダはイエスを裏切ろうとしている。他の弟子たちは誰もイエスの最後の時が来ていることに気付かない。その中で、この女性は持っているもの全てを捨てて香油を求め、それを自分に注いでくれた。この香油は、神の子、メシヤ(油注がれた者)としての自分の戴冠だとイエスは感じられたのであろう。また、香油は死者の臭いを消す為に体に塗られるが、イエスは香油が十字架の準備として注がれたと感じられた。この女性のひたむきな行為が十字架を前にしたイエスを慰めた。だからイエスは言われた「よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」(マルコ14:9)。

3.二組の人々、二組の論理

・ここに二組の人々が登場する。一組目の人々は祭司長や律法学者やユダたちだ。彼らが用いる言葉は、策略、捕える、殺す、騒ぐ、お金、売る、とがめる、困らせる等だ。このグループは人間社会そのものだ。人間社会における秩序は、力で捕え、金で売り買いをし、殺し怒り困らせることだ。彼らは常に損得を計算する。故に後先を考えない女の行為に腹を立てる。
・他方、もう一組の人々がいる。イエスと香油を献げた女性だ。彼らが使う言葉は、石膏の壷、ナルドの香油、注ぎかける、無駄遣いをする、施す、良いこと、福音だ。第二のグループは神の国に属する。神の国の秩序は無償で与え、向こう見ずに無駄遣いをする。愛は多すぎるとか、これで十分と言う計算をしない。愛は自分の全てを与える。この女性は自分の全てを投げ打って香油を求め、その香油を全てイエスに注ぎかけた。部屋はナルドの香油の香ばしい匂いで満ちた。やがてイエスも十字架につかれる。イエスに属さない人々はイエスに尋ねる「何故十字架で死なれるのか。あなたが十字架で死んで何が起きるのか。あなたがそれを愛だというならば、何故愛をそんなに無駄遣いするのか」と。しかし、イエスはあえて十字架につかれた。その十字架上でイエスの壷が壊され、キリストの香りが全世界に流れ出た。
・今日の招詞に第二コリント2:15-16を選んだ。パウロがキリストの香りについて言及している個所である。
「私たちは、救われる者にとっても滅びる者にとっても、神に対するキリストの香りである。後者にとっては、死から死に至らせる香りであり、前者にとっては、命から命に至らせる香りである。いったい、このような任務に、だれが耐え得ようか。」
・ベタニヤ村で女がナルドの香油の入った石膏の壷を壊してイエスに注いだことで、香ばしい香りが部屋中に漂った。イエスが十字架で私たちのために死なれることによって、キリストの香りが全世界に広がった。私たちはその香りを受けてキリストに従う者となった。私たちが誰かをキリストの前に連れて行くとき、私たちは命の香りを放ち、私たちが誰かをキリストから離れさせる時、私たちは死の香りを放っている。
・前の西川口教会の牧師で、今、天城山荘のチャプレンをしておられる井置利男先生が次のような文を書かれている(天城山荘報、2002年9月1日)。「私は中学生の頃から国語と漢文が好きでした。理由はその授業を受け持っていてくださったK先生が好きだったからです。・・・ところが英語は大嫌いでした。と言うのは英語の授業を受け持つF先生が大嫌いだったからです。・・・青年時代、私が心を開いて教会に通い続けたのは、その教会にYという名の青年がいたからでした。私はその青年の、クリスチャンとしての人間的魅力にすっかり惚れ込んでしまうほどに彼のことが好きになっていました。もちろん彼の信じているキリスト教も好きになっていったのは言うまでもありません。・・・人がキリストの福音を受け入れる第一の条件は、クリスチャン自身が魅力的な人格に造られて行く事だと思います」。
・正にパウロが言っているのと同じことがここで言われている。私たちがキリストに従う者として命の香りを放つ時、私たちに出会う人々はキリストに即ち命に導かれ、私たちがキリストに従うものにはあるまじき死の香りを放つ時、その人はキリストから命から離れていく。私たちはキリストの香りを身にまとう存在なのである。キリストの香りを身にまとう者は、もうこれで十分とか多すぎるとかの計算をしない。ベタニヤ村で女はナルドの香油の入った石膏の壷を壊し、高価な香油を全て献げた。エルサレム神殿で貧しいやもめは持っているもの全て、レプタ二つとも献げた。イエスに従うことはこういうことだと聖書は告げる。
・先週、ヨハネスブルクで環境開発サミットが開かれた。国連が主催し、途上国の経済発展を支える為に先進国が援助を増やすようにを求めている。豊かな国は捨てるほどの食べ物を持つが、貧しい国では人々が餓死している。それでは不公平であり、貧富の格差を残したままで世界は平和になれない。サミットでは、途上国は先進国に対しGDPの0.7%を経済援助するように求め、先進国はそれは多すぎる、そんなに出せないと断っている。香油を献げた女に対し、人々はそれを売って貧しい人々に施せと言った。しかし、彼らは言うだけで自分では行わない。このような人々の行う施しを積み重ねても貧困は解決できない。愛のない施し、いやいやながら出す経済援助は依存関係を作り出すのみで、貧困問題は解決しない。この女のように、全てを損得なしに、計算しないで与える時、つまり自分の親や兄弟が食べるものがない時自分はどうするだろうかと考えて献げる時、新しい世界が作り出される。しかし、人間社会ではそのような行為は「何故そんな、無駄遣いをするのか」と一蹴されてしまう。しかし、私たちは負けない、何故なら神の国は既に来ているからだ。
・イエスは十字架で私たちの罪のために全てを献げられた。それは、持っているもの全てを献げた貧しいやもめや、このベタニヤの女の行為と同じだ。二組の人々がいる。一組の人々は損得を計算し、これくらいで十分だろうとしていやいやながら献げる。しかし、もう一組の人たちがいる。相手の苦しみを見て自分のはらわたがねじれるような痛みを感じ、持っているものすべてを差し出す。何故なら自分たちも苦しんでいる時に与えられたから、その感謝と喜びを示さずにはいられないのだ。このひたむきな行為が信仰だ。その信仰によって行為する人々がいる、そして私たちもそうしたいと願う。そのことこそが神の国が既に来ている証拠なのだ。私たちがそう願う時、私たちもキリストの香りを放つものとなるのだ。

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