江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2002年5月19日特別伝道集会説教(ルカ12:13−21、一番大切なもの)

投稿日:2002年5月19日 更新日:

1.財産と命

・イエスはガリラヤの各地を「神の国は来た」と宣教して回られた。いつも大勢の群衆がイエスの周りに集まってきて、彼の話を聞いた。ある時、群衆の一人が彼に頼んだ「先生、わたしの兄弟に、遺産を分けてくれるようにおっしゃってください」(13節)。彼は遺産相続のことで兄弟と争っていたのであろう。ユダヤでは長子が2倍を相続し、他を兄弟たちで分ける(申命記21:17)。この場合、兄は遺産を弟に分けてやらなかったか、もしくは規定以下の分け前しか与えなかったため、弟は遺産相続に不満を持っており、イエスに口利きを頼んだ。その男にイエスは言われた。
「人よ、だれがわたしをあなたがたの裁判人または分配人に立てたのか」(14節)。
・一見すると冷たい言い方である。しかし、決して冷たい言い方ではないことが、次の15節でわかる。
「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。イエスに兄との調停を頼んだ男は、財産がもらえれば幸福になれると思い込んでいる。しかし、イエスは言われる「あなたは財産を巡って兄弟と争っている。財産があることがあなたを不幸にしているのではないか。本当に財産があなたの命にとって一番大切なものか、考える必要があるのではないか」と。
・そして一つのたとえを話された。有名な愚かな金持ちのたとえである(16節以下)。
「ある金持ちがいた。彼はいくつもの蔵を持つ豪農だった。ある年、非常に豊作であった。倉に入りきれないほどの穀物が収穫された。これらの穀物をどうやって収納したらよいのか。金持ちは思い巡らし、新しい大きな倉を建てることにした。そして彼は思った。これから何年も生きていくだけの蓄えが出来た。さあ、人生を楽しもうと。その時神が言われた。愚か者よ、あなたは今日死ぬのだ。あなたの財産は誰の者になるのか」
・原文のギリシャ語ではこの短い数節に私(ギ=ムー)と言う言葉4回も出てくる。私の作物、私の倉、私の財産、私の魂、彼の関心は私だけだ。しかし、命が終る時、私の倉も、私の穀物も、私の財産も、私の魂も終る。故にイエスは言われる。愚かな金持ちよ、何が一番大切なものか、知らなかったのか。
・このたとえの意味するものは明らかだ。一つは、この金持ちは自分の命が自分の支配下にあると思っている。私たちも老後や不治の災害に備えて貯金すれば安心だと思っているが、その前に死んでしまうかもしれない。命は私たちのものではない。二つめは努力して蓄えても、死んでしまえばその財産は他人のものになる事である。そして財産を残すことによって相続人の間に争いが起こり、かえって不幸を招くことも多い。三つめは、地上の財産は私たちが天の国に入るためには何の役にも立たないことである。だから、この金持ちは愚かではないか、本当に必要なものを持ってなかったのではないかとイエスは私たちに問い掛けておられる。
・私たちの人生もこの愚かな金持ちの人生に似ているかもしれない。私たちは良い大学に入り、良い会社に入り、良い地位を得て、良い経済生活をすることを望んでいるが、遅かれ早かれ死ぬ。死ぬ時には、財産も地位も名誉も何の役にも立たない。役にも立たないものを求め続けて生きる、それで良いのかと言う問いかけがここで為されている。


2.ビオスとゾーエー

・新約聖書はギリシャ語で書かれているが、ギリシャ語には命を表わすのに二つの言葉がある。「ビオス」と言う言葉と「ゾーエー」と言う言葉だ。ビオスとは生理学的命、心臓が動いているとか、呼吸をしている等の命である。それに対してゾーエーは人格的な命、人間らしく生きるという時の命である。人間は動物と異なり、生理学的命だけでなく人格的命も生きる。だから「将来に希望を無くし、生きていても仕方がない」と思う時、この生理学的命(ビオス)では生きているが、人格的命(ゾーエー)では死んでいることになる。
・イエスがこの愚かな金持ちのたとえで私たちに問われていることは、生理学的命(ビオス)にとらわれすぎる時、本当に必要な人格的命(ゾーエー)を失うのではないかということである。人の生命維持に必要なものは、物質的な糧と霊的糧である。前者は生物体としての命維持のために必要であり、後者は人格的命の維持のために必要である。ビオスのための糧(衣食住)は父なる神が与えてくださる。だからあなた方はゾーエーのための糧、即ち神の国を求めよと。
・人が必要以上に物質的な富を蓄えても、それでもって自分の命を質的にも量的にも増やすことは出来ないし、逆に物質的な所有を貪ることによって霊的な命は枯渇していくのではないか。愚かな金持ちの場合、関心は自分だけで、そこには自分が神により、また人により生かされてるという気持ちはない。彼はビオスを貪ぼることにより、ゾーエーを殺してしまった。
・私たちは人生の大半を衣食住即ちビオスを養うための物質確保のために働く。少しでも良い暮らしをしたいと思うし、そのためにもっとお金が欲しいと思う。しかし、それは本当に必要なものなのか、本当に必要なものはそんなに多くないではないか。仮に私たちがガンに罹り、余命半年と宣告された時、私たちは今と同じ生活を続けるだろうか。半年後に死ぬのであれば他の生き方をすると思う時、人は本当に必要なものをまだ得ていない。本当に今の生き方でよいのか、死んでも悔いないほどに充実して生きているかがこの譬で私たちに問われている。それは現在の生活の基盤を捨てよと言うのではない。現在の生活を絶対視せず、相対化することによって新しい命のための糧を求めよということである。
・この例えに続いてイエスは言われる。―ルカ12:22-23「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようかと、命のことで思いわずらい、何を着ようかとからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさっている。」
正に命は食物に勝り、からだは着物に勝っている。しかし、それでは食物や着物のことはどうするのか。
・イエスは続けて言われる。―ルカ 12:29-30「あなたがたも、何を食べ、何を飲もうかと、あくせくするな、また気を使うな。これらのものは皆、この世の異邦人が切に求めているものである。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要であることを、ご存じである。」衣食が人間に必要なことは父なる神が知っておられる。そして神は子であるあなたを養われる。だから、あなたは一番大切なものを求めよ。それは何か。言葉は続く。
今日の招詞の個所=ルカ 12:31-32「ただ、御国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられるであろう。恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。」

3.一番大切なもの

・イエスの弟子ペテロは人々に福音を伝道して言った。―使徒3:6「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。」教会にはビオスを養う金銀はない。しかし、ゾーエーを養う神の言葉、聖書がある。共に聖書を読むことによって、内面から私たちを縛るものから解放される。聖書はそれを「神の前に富む」あるいは「天に富を積む」と言う言葉で表現する。神の前に豊かな人は、世の所有物は乏しくとも心は平安である。神が地上に生かされることを良しとされる間は、彼は食物・衣服に事欠くことなく、感謝と平安の中に生きる。時が来て地上の生を終えるときは、信仰と希望と愛を持って天の国に行く。このような生活がありうるし成立しうるのだ。聖書はそう主張する。言ってみれば簡素な、しかし平和な生活である。生理学的命の維持のためには必要最小限があればよい。霊的命のためには神の言葉である聖書によって養われる。そういう生活に招くために、ここに教会が建てられた。

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