江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

聖書教育の学び

2023年1月15日聖書教育の学び(2022年4月20日・27日祈祷会から)

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1.らい病を患っている人の癒し

 

・イエスが町におられた時、全身を「らい」に冒された人が来た。当時の人々はらい病を神の刑罰によるものと考え、宗教的に「汚れた者」と呼んだ。彼らは町の中に入ることを許されず、道を歩く時には「汚れているから近寄らないでくれ」と言うことを義務付けられていた(レビ記13:45-46)。らい病を患っている人はイエスならば憐れんでくれるかもしれないと思い、必死でイエスのところに行った。

-ルカ5:12-13「イエスがある町におられた時、そこに全身らい病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、『主よ、御心ならば、私を清くすることがおできになります』と願った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまちらい病は去った」。

・らい病を患っている人は町に入ることを禁止されていた。彼の行為は律法に反することであり、石で打ち殺されても仕方のない、命の危険を犯す無謀な行為だった。それでも彼はイエスならば憐れんでくれると信じ、必死でイエスのところに行き、癒しを求めた。社会はらい病を汚れた病として忌み嫌ったから、彼自身も自分を汚れていると思っている。「自分は罪人で清めていただく価値は無いかもしれませんが、それでもどうか憐れんで下さい」とこの人は願った。イエスは、彼の必死の訴えの中に、彼の悲しみと苦しみを見られ、命の危険を冒してまで自分を求めてきたその行為に感動された。マルコ福音書では「イエスは深く憐れまれた」(マルコ1:41)とある。

・「らい病」は差別語として廃され、今では「ハンセン氏病」と呼ばれている。病菌は20年以上に及ぶ潜伏期間を経て発病し、遺伝性疾患とされ患者の家族を巻き込む悲劇を生んだ。日本ではらい予防法を制定して隔離政策をとり、医師の届け出義務、療養所への患者の強制入所を定めた。しかし、その後、治療法の進歩で、1996年らい予防法は廃止、2001年元患者らを原告の提訴で熊本地裁は国に賠償を命じ、同年、謝罪と反省文を加えた「ハンセン病賠償法」が成立した。

・イエスは癒された人に、「この事を誰にも話してはいけない」と厳しく戒められた。それは神の憐れみを与える信仰の行為であり、病を癒すことが目的ではなかった。しかし、人々がイエスに求めたのは信仰ではなく、癒しであった。「もっと癒せ、何故もっと癒さないのか」、多くの人が癒し人イエスの前に列をつくった。イエスは人々に「神はあなた方を愛されている」ことを伝えるために来られた。その神の愛の一つの現れとして病の癒しがある。しかし、人々には神の愛よりも癒しを求めた。そのような人々を避けるために、イエスはこの人に「この事を誰にも話すな」と命じられた。人々がイエスの癒しを求めて集まった時も、群衆を避けて離れたところに退いて祈られた。

-ルカ5:15-16「イエスは厳しくお命じになった。『だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せモ-セが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。』しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気を癒していただいたりするために、集まって来た。だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。」

・多くの人がイエスの憐れみの業を継承して生きた。キング牧師はアメリカ南部で黒人が人間以下に扱われ、社会から排除されているのは父なる神の御心ではないとして、差別撤廃のための公民権運動に従事し、その運動を通して多くの人がキリストに出会っていった。マザー・テレサは、カルカッタの路上で捨てられて死んでいく人たちを見て、イエスがらい病者を見て感じられた「はらわたがねじれるような痛み」を感じ、「死者の家」を作って、人々をそこで看取った。そのマザーの行為を見て、人はそこにキリストを見出し、教会に導かれていった。彼らの原点はイエスの癒しにある。イエスの癒しは単に肉体的な病の癒しではなく、魂の癒しだ。病気は癒されてもやがてその人は死に、その癒しは終る。しかし、魂の癒しは人の死を超えて生きる。教会はこの魂を癒されるイエスの業を伝えていく。私たちの周りにも癒しを求める多くの人がいる。その人たちにどうやってイエスの癒しの業を伝えていくのか。

-マタイ18:14「これらの小さい者の一人が滅びることは、天にいますあなたがたの父の御心ではない」

 

2.中風の人の癒し

 

・イエスの癒しの評判を聞いて、大勢の人々が集まって来た。エルサレムからは律法学者たちがイエスを監視するために来た。そこに四人の男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んできた。

-ルカ5:17-18「ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法学者たちがそこに座っていた。この人々はガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気を癒しておられた。すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。」

・大勢の群衆がいるため、病人をイエスの前に連れて行くことが出来なかった。彼らはあきらめないで、家の屋根に登り、瓦をはいで、病人をそこから床のままでつり降ろした。それは常識はずれの行為だった。あたりには粉塵が立ちこめた。イエスは必死で自分を求めてきた人々の信仰に感動された。

-ルカ5:19-20「しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、『人よ、あなたの罪は赦された』と言われた」。

・中風は現代の脳卒中で、発作後、意識が回復しても、後遺症で手足の麻痺や言語障害が残ったりする。イエスは中風の男に罪の赦しを与え、起きて歩くことを命じている。イエスの癒しの業は「罪の赦し」が基本であった。当時、病気は罪の結果として理解されていた。

-ルカ5:21-26「ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。『神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、一体だれが、罪を赦すことができるだろうか、』イエスは彼らの考えを知って、お答えになった、『何を心の中で考えているのか。「あなたの罪は赦された」と言うのと、「起きて歩け」と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。』そして、中風の人に、『私はあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい』と言われた。その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取りあげ、神を賛美しながら家に帰って行った。人々は皆大変驚き神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、『今日、驚くべきことを見た』と言った。」

・イエスは律法学者たちに、「何故あなた方は病人が癒されたことを共に喜ぶことが出来ないのか、何故神が示されたこの憐れみを共に讃美できないのか」と問われている。癒しの中核にあるものは必死の求めだ。らい病人は殺されるかもしれない危険を冒して町に入り、イエスの前にひれ伏した。中風の人を運んできた男たちは、人の家の屋根をはぐという非常識なことまでしてイエスを追い求めた。両者ともこの時を逃したらもうイエスに会えないかも知れないという切迫感の中で、イエスを求めている。私たちがイエスに出会うのは、往々にして、私たちが苦しみの中にある時だ。苦しいから必死に求め、必死に求めるから応えて下さる。その意味で、苦しみや悲しみが私たちを祝福に導く。

-聖書教育の学び

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