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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

聖書教育の学び

2022年2月27日聖書教育の学び(2017年7月5日祈祷会、マルコ11:20-33、いちじくの木の教訓)

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1.枯れたいちじくの木の教訓

 

・エルサレムに入る途上、イエスは、いちじくの木が葉を茂らすだけで実を結ばないことを怒って呪われた。何故イエスはこのような行為をされたのか。多くの人は疑問に思った。

-マルコ11:12-14「翌日、一行がベタニアを出る時、イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉の他は何もなかった・・・イエスはその木に向かって『今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように』と言われた。」

・イエスがエルサレムに入城されたのは、過越祭の時、3月から4月だ。その頃、無花果は葉が繁っても実のなる時期ではない。実のなる季節でもないのに無花果の実を取りに行き、実がないからと無花果を呪い枯らせるのは、理不尽ではないかと、だれもが思う。しかし、この物語に挟み込まれるように宮清めの出来事が記されていることから、おそらくは「期待されている実を結ばないイスラエルの民の不信仰」を嘆かれる、預言者的象徴行為と見るべきであろう。

-マルコ11:15-17「イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された・・・そして、人々に教えて言われた『私の家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった』」。

・不信仰のイスラエルは、旧約ではしばしば実を結ばない無花果の木に例えられる。

-エレミヤ8:13「私は彼らを集めようとしたと主は言われる。ぶどうの木にぶどうはなく、無花果の木に無花果はない。葉はしおれ、私が与えたものは、彼らから失われていた」。

・無花果の木を切り倒す時が来た。エルサレム神殿があることによって人々の信仰が偶像化するならば、神殿は壊されるだろう。事実、エルサレム神殿は紀元70年にローマに滅ぼされた。

-マルコ13:1-2「イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った『先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう』。イエスは言われた『これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない』」

・そして無花果の喩えの後半が神殿清めの翌日の出来事として描かれる。

-マルコ11:20-21「 翌朝早く、一行は通りがかりに、あの無花果の木が根元から枯れているのを見た。ペトロはイエスに言った『先生、御覧ください。あなたが呪われた無花果の木が、枯れています』」。

 

2.象徴的出来事としてのいちじくの木の出来事

 

・この出来事は預言者の象徴行為であることを覚える必要がある。いちじくはイスラエルを象徴する果物であり、珍重されてきた。その神の民が今は葉ばかりが茂り、神に対して実りなき者となっており、その結果、破滅しかない。この厳粛な事実を示すために、イエスはあえていちじくの木を枯らすという異常な行動に出られた。その証拠に、マルコでは神殿粛清の記事を囲むように配置されている。この物語は本来、神殿粛清の物語の一部なのである。

・マタイ福音書の並行個所では、イエスが無花果の木を呪われた時、木はたちまち枯れてしまったと記す。マタイにおいてはイエスの言葉の奇跡的な力の方が重要視されている。

-マタイ21:18-19「朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。道端に無花果の木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、『今から後、いつまでも、お前には実がならないように』と言われると、無花果の木はたちまち枯れてしまった」。

・同時にマタイのイエスは語る「信じて疑わないなら無花果の木を枯れさせたようなことができるばかりではなく、山をも動かせる」と。「神にはできないことはない」、イエスの信仰をマタイは強調する。

-マタイ21:20-22「弟子たちはこれを見て驚き、『なぜ、たちまち枯れてしまったのですか』と言った。イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、無花果の木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、「立ち上がって、海に飛び込め」と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。』」

・イエスは、枯れた無花果の出来事を通して、弟子たちに「山を移すほどの信仰」の意味を教えられた。イエスのいう山は、一行がその時立っていたオリーブ山で、海はエルサレム東方の死海を指している。

-マルコ11:22-24「そこで、イエスは言われた。『神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言う通りになると信じるならば、その通りになる。』」

・イエスは祈る時、「恨みなどの怨念があってはならない、わだかまりのない心で祈る」ように指導された。

-マルコ11:25「『また、立って祈る時、だれかに対して何か恨むことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦して下さる。』」

・イエスの祈りについての教えには、「祈り求めるものは既に得られたと信じなさい」という言葉と、「だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい」という二つ言葉が挙げられている。祈りにおいて大事なことは「信じる」ことと同時に、「赦す」ことだ。イエスの示された神は「隣人を赦す者を受け入れ、隣人を赦さない者は受け入れない方」である。隣人を愛することが律法を全うすることだとパウロも繰り返し語る。(ローマ13:9-10他)。

 

3.権威についての問答

 

・イエス一行が再びエルサレム神殿境内を歩いていた時、祭司長、律法学者、長老達がやって来て、「何の権威で民衆に教えているのか」、「誰が民衆に教える権威を与えたのか」とイエスに質問を浴びせた。

―マルコ11:27-28「一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、言った。『何の権威でこのようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。』」

・イエスは彼らの質問に質問で答えられた。これは当時のラビが質問に答える典型的な方法で、質問者に、なぜその答えを知りたいのか反問を繰り返しながら、答えを浮かび上がらせる方法だった。

-マルコ11:29-30「イエスは言われた。『では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネのバプテスマ(洗礼)は天からのものだったか、人からのものだったのか。答えなさい。』」

・彼らは互いに論じあったが、下手に答えると群衆の怒りを招きかねないため、「分からない」と答えるしかなかった。イエスも言われた「それなら、私も何も答えない」。

-マルコ11:31-32「彼らは論じあった。『「天からのものだ」と言えば、「では、なぜ、ヨハネを信じなかったのか」と言うだろう。しかし、「人からのものだ」と言えば・・』彼らは群衆が怖かった。皆がヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。そこで彼らはイエスに、『分からない』と答えた」。

・イエスと権威問答をした祭司長、律法学者、長老たちは、サンヘドリン(最高法院)を構成する人々であり、当時のユダヤ社会の指導者だった。彼らは自分たちこそ、この国の権威であると確信していた。彼らがイエスに対して「何の権威でこのようなことをするのか」と問うたのは、イエスが彼らの権威を認めなかったからだ。ラビでもないイエスが、神殿を「私の家」と呼び、自分を「人の子は安息日の主である」と語る。イエスをメシアと信じていないユダヤ教指導者から言わせれば「何の権威でこんなことをする」ということになる。

・イエスは、彼らのいう権威論など何の価値もないこと示すため、洗礼者ヨハネを持ち出された。「権威とはもともと神から与えられるものではないか」、「ヨハネの洗礼は天からのものだったか、人からのものだったか」。彼らは答えられなかった。天からのものだと言えば、何故ヨハネを信じなかったかと責められ、人からと言えば、ヨハネを預言者と信じる群衆の反応が怖かった。ヨハネのバプテスマ運動は当時のユダヤを揺るがせた衝撃であり、荒野で神の国の切迫と悔い改めを求めるヨハネの声に、民衆は預言者の声を聴き、ヨハネから洗礼を受けた。イエスもこの時にヨハネ教団に加入されている。しかし祭司長たちはヨハネ運動に否定的だった。ただ民衆の人気を得ていたヨハネを否定もできない。彼らの権威は群衆の顔色を窺う程度のものでしかなかった。

・彼らにイエスは言われる「あなた方が答えないのであれば私も答えない」と。ヨハネを受入れない祭司たちはイエスを受入れない。神の権威は受入れるかどうかの決断だ。

-マルコ11:33「そこで、彼らはイエスに『分からない』と答えた。すると、イエスは言われた『それなら、何の権威でこのようなことをするのか、私も言うまい』」。

・パウロもまた批判者たちから「使徒としての権威」を問われた。それに対してパウロは「イエスから使徒に任命された」と答える。バプテスト教会の教職理解もここにある。人からではなく神から召命を受けたとの確信が彼を教職者にする。そこでは神学校を出る等の制約は何もない。

-ガラテヤ1:1「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」。

-聖書教育の学び

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