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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

聖書教育の学び

2021年6月6日聖書教育の学び(2020年4月22日祈祷会、第一ヨハネ1章、見て、聴いて、触った方を、証する)

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1.イエスを通して神を知る

 

・ヨハネ福音書は、ユダヤ教からの迫害に苦しむ教会の信徒のために書かれた福音書だ。福音書の中で言及される「イエスの愛した弟子」ヨハネが、ヨハネ福音書の著者とされる。

-ヨハネ19:26「イエスは、母とそのそばにいる、愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です』。そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」。

-ヨハネ21:24「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている」。

・愛弟子ヨハネがエフェソに移住してそこに教会を立てた。それから30年、ヨハネの教会は試練の中を生き残り、今では後継者の長老ヨハネを中心にした複数の群れにまで育っていた。しかし、教会の中に新たな危機が生まれた。伝えられた福音とは異なる教えを信じる者たちが出て、教会に混乱が生じ始めていた。このような状況下で書かれた三通の手紙がヨハネの手紙であるとされる。著者は愛弟子ヨハネの後継者長老ヨハネと言われている。

-第一ヨハネ1:1-2「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。この命は現れました。御父と共にあったが、私たちに現れたこの永遠の命を、私たちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです」。

・ヨハネの手紙第一の冒頭の言葉は、ヨハネ福音書冒頭と同じだ。ヨハネ福音書を生んだ共同体が手紙を書いている。ヨハネ共同体は、「命の言葉が受肉した、救いはキリストにある」と主張する。

-ヨハネ1:1-14「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった・・・言は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。

・福音はエルサレムを出て、ギリシャ・ローマ世界に広がっていくに従い、御子の受肉に疑問を持つ人々が教会内に生まれてきた。ギリシャ人には、「神が肉体を持って人となられた」と信じることは愚かなことであり、「キリストは真の肉体を持たず,その誕生は仮の姿にすぎない」としてイエスの受肉を否定し、更にイエスが体を持ってよみがえられた復活をも否定するようになってきた。同時代の思想家ケリントスは「キリストはナザレのイエスの受洗時に肉のイエスと結合したが、受難に先立って再びイエスの肉体から離れ、神のもとに帰った。そして人間イエスだけが苦しみを受け、十字架につけられた」と述べている。長老ヨハネは教会内のこのような異端と闘っている。

-第一ヨハネ1:3-4「私たちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなた方も私たちとの交わりを持つようになるためです。私たちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。私たちがこれらのことを書くのは、私たちの喜びが満ちあふれるようになるためです」。

・異なる福音を信じる人々は、教会を分裂させて出て行ったようだ。神の教会も、「神の国」ではないのだ。

-第一ヨハネ2:19「彼らは私たちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、私たちのもとにとどまっていたでしょう。しかし去って行き、だれも私たちの仲間ではないことが明らかになりました」。

 

2.神に出会った者は生き方を決定的に変えられる

 

・長老ヨハネは、交わりから去っていった人たちのことを考えながら手紙を書いている。「神は光である」と言いながら、教会の交わりを壊して去っていった人たちだ。長老は、共同体の交わりが人間の罪によって妨げられ、破壊されている現実を見つめ、それを克服する道を説く。神は、罪を犯さざるをえない弱い人間が、光の中で交わりを維持することができるように、罪を克服する道を備えてくださった。それが「御子イエスの血」、受難による贖いである。

-第一ヨハネ1:5-6「私たちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。私たちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません」。

・人が自己中心の生き方をするのは、自分の罪を認めないからだ。自分が罪人であり、キリストの十字架によって赦されたことを知る者は、他者を貶めない。自らを罪無しとする者は、闇を照らす光に出会っていないとヨハネは語る。

-第一ヨハネ1:7-8「神が光の中におられるように、私たちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちの内にありません」。

・ヨハネは語る「もし私たちが、自分の罪を公に言い表すなら、神は赦して下さる。しかし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はその内にはない」と。

-第一ヨハネ1:9-10「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義から私たちを清めてくださいます。罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉は私たちの内にありません」。

・教会を分裂させた人々は、「自分たちには罪がない」と主張したようだ。罪がなければ、キリストが死ぬ必要はなかった。そのような態度は、福音に示された神の言葉を拒否することである。長老は共同体の各員に勧める「自分が罪を帯びた弱い存在であることを認めて、子の血による清めを受け、互いの交わりを維持するように」と。自分には罪はないとして、相手を裁く心が交わりを破壊する。

 

3.ヨハネの手紙1章の黙想

 

・ヨハネ共同体は愛弟子ヨハネによって建てられ、長老ヨハネによって継承されてきた。彼らはユダヤ教会からの迫害に耐え、皇帝礼拝を求める不条理の中にあっても、信仰を守ってきた。しかし内部からの異なる信仰の出現により、教会の土台が崩されようとしている。時間の経過とともに、教会の信徒は二代目、三代目になり、復活のイエスとの顕現体験を持つ者は少なくなり、理性で納得できることしか認めようとしなくなり、イエスの受肉を否定し、イエスの受難とその贖いをも否定するようになった。

・理解できない事柄、実証できない教理は信じない、と語る人々は今日でも多い。アメリカではキリスト教徒は保守派とリベラル派に分かれるが、リベラル派の多くはユニテリアンと呼ばれる「理性主義信仰」を奉じている。彼らの考え方は「イエスは神の子ではなく人間だ。イエスは私たちをよりよい生に導く善良で賢明な道徳の教師だ」というもので、ハーバード大学等がその本拠になっている。しかし、キリスト教信仰を知識として受け止めていった時、その信仰は力を持たない。いつの間にかそれは信仰ではなく、ヒューマニズムになってしまうからだ。信仰とは感動であり、「イエスが私たちのために命を捨ててくださった。そのことによって、私たちは愛を知った」という感動のみが、「だから私たちも兄弟のために命を捨てる」という行為を生む。

・私たちは自分の罪を知り、自分の惨めさに泣いたことがある。泣いたことのある者は他者の悲しみを悲しむことが出来、苦しんだことのある者は他者の苦しみを理解できる。その意味で、私たちは悲しむ人、苦しむ人に共感することが出来る者とされた。ヨハネは言う「兄弟を愛する人はいつも光の中にいます」(2:10)。現実の教会の中には罪がある。意見の違う人も、考えかたの異なる人もいる。全ての人を好きになることは出来ない。しかし、私たちには嫌いな人も愛する能力が与えられている。愛は感情ではなく意思だ。キリストはその人のためにも死なれたことを知るゆえに、私たちはその人を憎まない。

・自分の信仰が聖書に基づいているか、否かの判別は簡単だ。自分と異なる人を受入れるか、憎むか、だ。1944年にナチスへの抵抗運動の中で殺されていったボンヘッファーは死を前にした獄中からの書簡で語る「われわれがキリスト者であるということは、今日ではただ二つのことにおいてのみ成り立つだろう。すなわち、祈ることと、人々の間で正義を行うことだ」(ボンヘッファー「抵抗と信従」p213)。獄中において祈る力は、キリストも同じ苦しみをされたことを知るゆえに可能になる。殺されるかもしれない状況の中で正義を行う力は、キリストの復活なしには生まれない。「イエスが私たちのために命を捨てて下さった」、この感動なしにはキリスト者であり続けることはできない。

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