1.イスラエルの山々の回復
・かつてエゼキエルはイスラエルの山々に向かって滅亡預言を行った(6:1-6「イスラエルの山々よ、主なる神の言葉を聞け・・・お前たちの住む所はどこにおいても、町は廃虚とされ、聖なる高台は荒らされる。祭壇も廃虚とされて荒らされ、偶像は粉々に砕かれ、香炉台は打ち壊され、こうしてお前たちの作ったものは一掃される」)。そのエゼキエルがエルサレム滅亡後、同じ山々の回復を預言する。荒れ果てた国土は異国人が侵略しているが、彼らは排除され、やがてバビロンの地から捕囚の民が帰ってくるであろうと。
-エゼキエル36:1-8「イスラエルの山々よ、主の言葉を聞け・・・敵がお前たちに向かって、ああ、永遠の丘が今や我々の所有となったと言っている・・・主なる神は、山と丘、谷と低地、荒れ果てた廃虚、また周囲の他の国々から略奪され侮られ、捨てられた町々に向かってこう言われる。・・・私は燃える熱情をもって、他の国々とエドムに対して語る。彼らはみな・・・私の土地を取り、自分の所有とし、牧草地を略奪した者だ・・・私は手を上げて誓う。必ず、お前の周囲の国々は自分の恥を負う。しかし、お前たちイスラエルの山々よ、お前たちは枝を出し、わが民イスラエルのために実を結ぶ。彼らが戻って来るのは間近である」。
・イスラエルの山々は、荒廃し、廃墟とされているが、その土地は再び耕され、種を蒔かれ、多くの人を養うようになる。私の民イスラエルがそこに住み、もう散らされることはない。
-エゼキエル36:9-12「私はお前たちのために、お前たちのもとへと向かう。お前たちは耕され、種を蒔かれる。私はお前たちの上に、イスラエル全家の人口をことごとく増やす。町々には人が住むようになり、廃虚は建て直される。私はお前たちの上に人と家畜を増やす。彼らは子を産んで増える。私はお前たちを昔のように人の住むところとし、初めのときよりも更に栄えさせる・・・私はお前たちの上に人々を、すなわちわが民イスラエルを歩ませる。彼らがお前を所有し、お前は彼らの嗣業となる。二度と彼らの子たちを失わせることはない」。
・イスラエルの民が国を追われ、捕囚となったのを見て、諸国の民はそれをイスラエルの神の無力ゆえと判断し、神の名が汚された。その名を回復するためにイスラエルの家を復興させると主なる神は言われる。
-エゼキエル36:19-24「私は彼らを国々の中に散らし、諸国に追いやり、その歩みと行いに応じて裁いた。彼らはその行く先の国々に行って、わが聖なる名を汚した。事実、人々は彼らについて、これは主の民だ、彼らは自分の土地から追われて来たのだと言った。そこで私は、イスラエルの家がその行った先の国々で汚したわが聖なる名を惜しんだ・・・私はお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う・・・私が彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされるとき、諸国民は、私が主であることを知るようになる・・・私はお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる」。
2.回復のための新しい霊、新しい心
・そのためには旧いイスラエルが回復されるのでは駄目だ。新しいイスラエル、捕囚という試練を通して鍛えられた民が必要だ。エゼキエルは捕囚の民に主の霊が下され、彼らが新しいイスラエルとして建てられることを預言する。
-エゼキエル36:25-32「私が清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。私はお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。私はお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。私はお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、私の霊をお前たちの中に置き、私の掟に従って歩ませ、私の裁きを守り行わせる。お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちは私の民となり私はお前たちの神となる。私はお前たちを、すべての汚れから救う・・・私がこれを行うのは、お前たちのためではないことを知れ、と主なる神は言われる。イスラエルの家よ、恥じるがよい。自分の歩みを恥ずかしく思え」。
・これはエレミヤの預言した新しい契約と同じだ(エレミヤ31:31-34)。人は生まれ変わることを通して新しい契約を結ぶようになる。そのためには一度死ななければいけない。
-ヨハネ3:3-6「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない・・・だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」。
・この新しい人々にイスラエルの地が与えられる。その時、荒れ果てた地が再びエデンの園のようになる。
-エゼキエル36:33-38「私がお前たちをすべての罪から清める日に、私は町々に人を住まわせ、廃虚を建て直す。荒れ果てた地、そこを通るすべての人に荒れ地と見えていた土地が耕されるようになる。そのとき人々は、荒れ果てていたこの土地がエデンの園のようになった。荒れ果て破壊されて廃虚となった町々が、城壁のある人の住む町になったと言う・・・主である私が、これを語り、これを行う・・・私は、再びイスラエルの家の願いを受け入れ、彼らのために行う。私は彼らの人口を羊の群れのように増やす。祭りの時に、エルサレムが聖別された羊で満ち溢れるように、廃虚であった町々は人の群れで満たされる。そのとき、彼らは私が主なる神であることを知るようになる」。
*エゼキエル36章参考資料:新しい契約についてエレミヤ31:31-40から学ぶ
・第一次捕囚時(前597年)、王は捕虜としてバビロンに連れ去られたが、ダビデ王家はゼデキヤにより継承され、また神殿も無傷で残された。王と神殿がある限り、人々は国の回復と神の保護を期待することが出来た。しかし、第二次捕囚(前587年)では、エルサレムは破壊され、王家は断絶し、神殿も破壊され、人々は希望のかけらをも持つことが出来なかった。旧い契約は破棄された。その時、エレミヤは新しい契約の約束を聞いた。
-エレミヤ31:31「主は言われる、見よ、私がイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る」。
・都エルサレムが破壊され、神殿が灰燼に帰し、民の多くは殺害され、生き残りの者たちもまた異教の地に散らされようとしている。エレミヤその絶望の中で、神は自ら壊されたものを再び回復されると啓示された。
-エレミヤ32:40「私は、彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない。また私に従う心を彼らに与え、私から離れることのないようにする」
・その契約は、旧い契約の更新ではありえない。ダビデの家系も神殿も断絶し、旧い契約は破棄された。また、仮に旧い契約を更新しても何の意味もない。「人の心はとらえ難く病んでおり」(17:9)、「クシュ人がその皮膚を、豹がその皮を変えることが出来ないように」(13:23)人間は契約を守ることが出来ないからである。契約を更新しても、また人間の側から破るであろう。救済は神の恩恵以外にはありえない。
-エレミヤ31:32「この契約は私が彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。私は彼らの夫であったのだが、彼らはその私の契約を破ったと主は言われる。」
・新しい契約においては、「神が語りかけ人が聞く」と言うこと自体が廃止され、神の意志は直接人の心に置かれる。その時、服従の問題はなくなる。服従とは人間の意志と異質な意志とが出会う故に生じるものであり、神がその意志を人間の心に置く時には、このような対決はもはや起こない。人間はその心の中に神の意志を担い、神の意志のみを欲するようになるからである。
-エレミヤ31:33「しかし、それらの日の後に私がイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわち私は、私の律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。私は彼らの神となり、彼らは私の民となると主は言われる」。
・イスラエルは「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:5)と命じられ、「今日私が命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、語り聞かせなさい」(申命記6:6-7)と言われた。その結果がこの破滅だ。もはや、人間の側からの救いはないから、「神がその律法を人間の中におき、心に記す」(31:33)ことが起きる。エレミヤは国の滅亡、捕囚を民の回心のためと理解している。
-エレミヤ31:34「人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、私を知るようになるからであると主は言われる。私は彼らの不義を赦し、もはやその罪を思わない」。
・捕囚の民は、このエレミヤの預言を受け止め、捕囚地において新しい共同体を形成した。国を失った捕囚民が信仰共同体として再生した背景には、エレミヤ31章「希望の使信」の影響が大きかった。捕囚期の預言者エゼキエルの中にエレミヤの信仰が継承されている。
―エゼキエル37:26-27「私は彼らと平和の契約を結ぶ。これは彼らの永遠の契約となる。私は彼らを祝福し、彼らをふやし、わが聖所を永遠に彼らの中に置く。わがすみかは彼らと共にあり、私は彼らの神となり、彼らはわが民となる。」
・福音書記者たちは新しい契約がイエスにおいて成就したと理解した。古い契約は過ぎ越しの羊の血で調印された。新しい契約はイエスが十字架で流された血で調印される。
-ルカ22:19-20「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた『これは、あなたがたのために与えられる私の体である。私の記念としてこのように行いなさい』。食事を終えてから、杯も同じようにして言われた『この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である』」。
・パウロもこの新しい契約がキリストの十字架により成就したと理解した。これが新約(新しい契約)である。
―第二コリント3:3-6「あなたがたは、キリストが私たちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。・・・神は私たちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします」。