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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

聖書教育の学び

2021年2月21日聖書教育の学び(2014年7月9日祈祷会、マタイ16:13-28、イエスとは誰か)

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1.ペトロが信仰を言い表す

 

・イエスと弟子たちはガリラヤ湖からヨルダン川沿いに北上し、フィリポ・カイザリアに行かれた。ガリラヤ湖北西40キロ、ヨルダン川の水源、ヘルモン山の麓にある町で、ヘロデ王の息子フィリポの領地であった。ヘロデ王が死んだ後、領主となったフィリポは皇帝カイザルに敬意を表し、自分の名と皇帝カイザルの名を合せ、町をフィリポ・カイザリアと命名し、父ヘロデ王が造ったカイザリア(海沿いの町)と異なることを主張したのであった。その場所で、イエスは、「自分のことを世の人々が何と呼んでいるのか」と弟子たちに問われた。

-マタイ16:13「イエスはフィリポ・カイザリア地方に行ったとき、弟子たちに、『人々は、人の子を何者だと言っているか』とお尋ねになった」。

・「人の子」、イエス特有の名前で福音書に89回も登場する。世人がイエスをどう認識しているかという問題であるが、イエスが確かめようとしたのは、信仰の対象としての認識の問題である。問いに対し、弟子たちは世人がイエスをどのように評判にしているかを様々に語り始めた。

-マタイ16:14「弟子たちは言った『洗礼者ヨハネだと言う人も、エリヤだと言う人もいます。ほかに、エレミヤだとか、預言者の一人だと言う人もいます』」。

・ヘロデ・アンテイパスはイエスを洗礼者ヨハネの生まれ変りと思い込んでいた(マタイ14:1-2)。エリヤはイスラエルの預言者で(列王上18章)、終末の時に再臨すると人々に信じられていた(マラキ3:23他)。エレミヤはメシアの来臨前に来て、バビロン捕囚の前に隠された契約の箱を取り出し、イスラエルに再び栄光を輝かすと信じられていた。当時の民間信仰では、預言者たちを神がよみがえらせ、民の救いのため派遣すると信じられていた。人々はそれを熱望していた。

・イエスは次に、「ではあなたがたは私を誰と思うか」と、弟子たちに質問された。イエスの弟子たちは二年間、寝食を共にし、イエスの説教を聞き、イエスの奇跡、癒しの業を目の当たりにしてきた。その弟子たちの理解を問われた。その問いに対し、弟子を代表してペテロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と言った。

-マタイ16:15-16「イエスは言われた『それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか』。シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた」。

・メシア、油注がれた者、古代では王(サムエル下2:4)や大祭司(出29:7)が任職されるとき油を注ぎ、後に「油注がれた者」は救い主を指すようになる。救い主(メシア)をギリシャ語に訳すと「クリストス」で、キリストの名はこれに由来している。ペトロはイエスを正しく認識していたとマタイは記す。そのペテロに対して、イエスは「シモン・バルヨナ」と改まった呼び方をした。「バルヨナ」、アラム語で「ヨナの子」を意味している。イエスはペトロに「あなたは幸いだ」と言われた。そして、イエスはこの認識は人ではなく、神によってもたらされたと言われた。

-マタイ16:17「するとイエスはお答えになった。『シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく、私の天の父なのだ』」。

・イエスはペトロに、「あなたに教会を託す」と言われる。「あなたはペトロ(岩)、この岩の上に教会を建てる」とイエスが宣言されたとマタイは伝える。「地上でつなぐことは天上でもつながれる」、地上の教会で決定したことは、天上で批准されることを意味する。カトリック教会はこの言葉を基礎に、ペテロの後継者ローマ法王が天国の鍵を委ねられていると主張した。しかし、この言葉はマルコにもルカにもなく、マタイ独自の言葉である。

-マタイ16:18-20「私も言っておく。あなたはペトロ、私はこの岩の上に私の教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。』それから、イエスは御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。」

・最古の福音書でマタイが参照したマルコ福音書には、ペテロ賞賛の言葉はなく、逆にペテロを戒める言葉が見える。マタイとマルコでは、ペテロに対する態度が大きく異なる。

-マルコ8:29「そこでイエスがお尋ねになった『それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか』。ペトロが答えた『あなたは、メシアです』。するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた」。

 

2.イエス、死と復活を予告する

 

・イスラエルの宗教指導者たちはイエスに敵対し、迫害の度を強めている。エルサレムに行けば受難は避けられない。しかしそれが父なる神の御心であればあえて受けようとイエスは決心しておられ、だからイエスは「自分はエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺されるだろう」と弟子たちに受難を告示された。

-マタイ16:21「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者らから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっていると、弟子たちに打ち明け始められた」。

・弟子たちは自分たちの耳を疑った。神から遣わされたメシアが殺されて死ぬ、そんなことがありえようか。マタイは「ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた」と記す。それに対してイエスは「サタン、引き下がれ」とペテロを激しく叱りつける。

-マタイ16:22-23「するとペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません』。イエスは振り向いてペトロに言われた。『サタン、引き下がれ、あなたは私の邪魔をする者。神のことを思わず人間のことを思っている』」。

・イエスはご自身の受難と死、そして復活予告の後、従う者の心得るべきことを教えられた。イエスに従いたいと決意する者は、自分の十字架を負って従わねばならない。十字架は受難と死を意味しているから、本当に従いたいなら、殉教も覚悟のうえで従うのである。イエスに従いながら、自分の命を惜しむなら、かえって、真の命、永遠の命を失うことになる。自分の命を捨ててこそ真の命を得るという教えであり、殉教を覚悟したマタイ教団の信仰告白であろうが、厳しい言葉である。

-マタイ16:24-25「それから弟子たちに言われた。『私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者はそれを失うが、私のために命を失う者は、それを得る』」。

・イエスは復活後昇天するがやがて再臨されると弟子たちは信じ、その時は近いと信じた。この再臨の近接が初代教会を伝道共同体にした。

-マタイ16:26-28「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのにどんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる」。

 

*参考資料:マルコとマタイのペテロ告白の違いについて(市川喜一著作集より)

・マルコ福音書ではペトロが当時のメシア観によって「あなたはメシアです」と言い表したのに対して、イエスはペトロのメシア観を訂正するかのように、ご自分がそのような「メシア」ではなく、苦しみを受ける「人の子」であることを明白に教え始められる。従来のメシア観から脱却できないペトロは、それを理解できず、イエスがそのような道を行かれないように「いさめ始め」、イエスから「サタンよ、引き下がれ」と激しく叱責される。

・しかし、マタイ福音書ではペトロの「あなたはメシア、生ける神の子です」という告白の直後に、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、私の天の父なのだ」というイエスの賞賛の言葉を置いている。マタイは明らかに、ここのペトロの告白を初期の教会が告白していた復活者キリストへの信仰告白としている。「生ける神の子」を加えたのも、イエスをキリストと告白する初期の信仰告白の定式に従っている(ローマ1:2-4参照)。このような復活者キリストへの信仰告白であるからこそ、「この岩の上に私の教会を建てる」と言うことができるのである。

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