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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

聖書教育の学び

2021年1月17日聖書教育の学び(2014年1月15日祈祷会、マタイ福音書5:17-20、律法について)

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1.律法について

 

・イエスの時代のユダヤ人の律法の第一は十戒、第二はモ-セ五書、第三は旧約聖書全体、第四は口伝律法であった。この口伝律法をイエスは問題にされた。それはまさに律法学者の作った人間の律法だったからである。イエスはその人間の律法を厳しく糾弾された。律法学者たちが律法の細かな解釈にこだわり、守るべき中心を見失い、そのうえ、律法の実践をも怠っていたからである。

-マタイ5:17-19「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消え失せるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だからこれら最も小さな掟の一つでも破り、そうするように人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。」

・イエスは律法学者やファリサイ人らをたびたび批判されたことから、あたかもイエスが律法を否定されておられるように見えるが、逆にイエスこそ律法を順守された方であった。イエスは「律法を廃止するのではなく、完成するために来た」と言われ、「律法の文字から一点一画も消え去ることはない」と言われた。一点一画とはヘブル語の点と画である。イエスはヘブル文字の小さな部分をたとえに用い、律法守ることの大切さを強調されたが、律法に対するイエスの真摯な態度は、ファリサイ派や律法学者に通じることはなく、イエスと彼らの間の溝は深まった。最初の摩擦は次ぎのようにして起こった。

-マタイ12:1-8「ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、『御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている』と言った。そこで、イエスは言われた。『ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし、『私が求めるのは憐れみであって、生贄ではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。『人の子は安息日の主なのである』」。

・申命記は記す「隣人の麦畑に入る時は、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」(23:26)。「手で穂を摘む」、貧しい人たちが行う生存のための、やむを得ない行為を保護する律法であった。イエスの弟子たちの行為は同じように法に適っていた。しかし律法学者たちはイエスの弟子たちの行為を「刈り入れ」と解釈し、安息日にしてはならない労働をしていると非難した。しかし、イエスはダビデの故事をあげ、空腹の時に麦畑で食べることは人の子には許されていると反論された。

・次の衝突はイエスの弟子たちの手洗いをきっかけで起こった事件であった。

-マタイ15:1-6「ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。 『なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません』。そこで、イエスはお答えになった。『なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。「 神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている』」。

・イエスは律法を守るとは表面的、形式的に守るのではなく、その本質に遡って守ることだと言われた。

-マタイ15:10-20「イエスは群衆を呼び寄せて言われた。『聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである』・・・イエスは言われた。『あなたがたも、まだ悟らないのか。すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。』」

 

2.律法から福音へ

 

・ファリサイ派の人々にとって、手洗いがいかに宗教的に大切であったかをマルコ7:3-4は伝える。

-マルコ7:3 -4「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある」。

・ここでいう手洗いとは、一般にいう手洗いではく、宗教的行為としての手洗いである。記録によれば、手洗いの水は清められた器に入れられ、一回に使う水はごく少量でであった。手を洗う者は、まず指先を上にして、側にいる人に皿の水を注いでもらい、その水を手首から落し、汚れた水を手に戻さないようにした。そのうえで一方の手でこぶしを作り、洗った方の手をこすり、これと同じことをもう片方の手で繰り返す。彼らはその潔めの儀式の形式にこだわっていた。日本人も葬儀に出席した人が家に帰ると、ひとつまみほどの塩で潔めの儀式をする。様々の潔めの慣習があるが、人々はその意味を考えようとせず、繰り返すだけである。口伝律法を意味も考えず繰り返すのも同じである。

・十戒やモ-セ五書を読んだファリサイ人は、その中の明示されていない教えについて、律法は神聖で完璧であるのだから、すべての法はその中で明示されているはずで、明示がないのは、暗示されているはずだと考えた。その結果、彼らの中から律法を専門に研究する者が現れ、職業とする者が律法学者となり、律法の原則から数え切れないほどの細則を作り、それが多くの無意味な口伝律法となったのである。

-マタイ5:20「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたはけっして天の国に入ることはできない。」

・ファリサイ派の人々にまさる義とは「無償の愛である」とイエスは教えられた。ファリサイ派や律法学者にまさる義は神の義であり、神の義はまさにここに示されている無償の愛である。この広大な愛をさしおいて、ほかに神の義があるだろうか。

-マタイ5:38-48「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、私は言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい・・・あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである・・・自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」。

・そのイエスを継承したものがパウロである。彼は述べる。

-ローマ13:9-10「人を愛する者は、律法を全うしているのです。『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」。

-聖書教育の学び

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