1.仮庵祭でのイエス
・イエスはエルサレムに上られる。エルサレムでは、ユダヤ人たちはイエスを捕らえようと探していた。ヨハネ福音書にいう「ユダヤ人」とはファリサイ人と律法学者たちである。彼らは自分を神とするイエスを憎んでいた。
-ヨハネ7:10‐13「しかし、兄弟たちが祭りに上って行った時、イエス御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた。祭りの時、ユダヤ人はイエスを捜し、『あの男はどこにいるのか』と言っていた。群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。『良い人だ』と言う者もいれば、『いや、群衆を惑わしている』と言う者もいた。しかし、ユダヤ人を恐れて公然と語る人はいなかった。」
・イエスは「私は自分の言葉ではなく、私を遣わした神の言葉を教えている」と語った。しかし、学歴や地位でしかイエスを判断できない人々に、その意味は通じなかった。
-ヨハネ7:14‐17「祭りもすでに半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って教えられた。ユダヤ人たちが驚いて、『この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう。』と言うと、イエスは答えて言われた。『私の教えは、自分の教えではなく、私をお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、私の教えが神からでたものか、私が勝手に話しているのか、分かるはずである。』」
・「私は神から託された真理を語っている。その私を何故殺そうとするのか。あなたたちこそ律法を守っていないではないか」とイエスはユダヤ人に反論した。
-ヨハネ7:18‐19「『自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。モ-セはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれも律法を守らない。なぜ、私を殺そうとするのか。』」
・群衆はイエスの危機感が理解できない。
-ヨハネ7:20‐22「群衆が答えた。『あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうというのか。』イエスは答えて言われた。『私が一つの業を行ったので、あなたたちは皆驚いている。しかし、モ-セはあなたたちに割礼を命じた。もつとも、これはモ-セからではなく、族長たちから始まったのだが、だから、あなたがたは安息日にも割礼を施している。』」
・「子供が生まれると、生後八日目に割礼を施さねばならない」と律法に(レビ記12:3)定められている。しかし、八日目が安息日の場合も当然起こるから、その場合の割礼は認められている。なぜ、人体の一部を切る手術行為のような割礼を認めておきながら、病の癒しを認めないのか。人が安息日に病むことも当然あるではないかとイエスは反論された。
-ヨハネ7:23‐24「『モ-セの律法を破らないようにと人は安息日であっても割礼を受けるのに、私が安息日に全身を癒やしたからといって腹をたてるのか。上辺だけで裁くのはやめ、正しい裁きをしなさい。』」
2.この人はメシアか
・人々はイエスがメシアであるかどうか、半信半疑で見ていた。彼らはイエスの出生地、成長の過程、その両親、兄弟とあまりにも知り過ぎていたから、イエスを信じることが出来なかった。
-ヨハネ7:25‐27「さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。『これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。しかし、私たちは、この人がどこの出身か知っている。メシアが来られる時は、どこから来られるのか。だれも知らないはずだ。』」
・自分への疑問を耳にしたイエスは、大声で彼らに向かい、証しを始められた。
-ヨハネ7:28‐29「すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。『あなたたちは私のことを知っており、また、どこの出身かも知っている。私は自分勝手に来たのではない。私をお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。私はその方を知っている。私はその方のもとから来た者であり、その方が私をお遣わしになったのである。』」
・イエスを預言者と信じる者が群集の中に大勢いた。そのためユダヤ人たちはイエスに手を出せなかった。
-ヨハネ7:30‐31「人々はイエスを捕えようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、『メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか』と言った。」
3.生きた水の流れ
・仮庵祭は、イスラエルの民がエジプトを出て、荒野を旅した時に、仮庵=天幕で過ごしたことを記念する祭りだ。荒野だから、水は乏しかった。民は水がなくなると、「何故我々をエジプトから連れ出したのか。私や子供たちを渇きで殺すためか」とつぶやいた(出エジプト記17:3)。神はモーセに「岩を杖で打て」と命じられ、モーセが打つとそこから水が出て、民は飲むことが出来た(民数記20:11)。それを記念して、仮庵祭の最終日には水注ぎの儀式が行われた。シロアムの池から採られた水が神殿に運ばれ、ラッパの吹奏と共にイザヤ12:3「あなたがたは喜びをもって、救いの井戸から水を汲む」が読まれ、祭壇に水が注がれる。水を汲まれることを通して、神の救いの恵みが想起される儀式が行われた。
・この水運びの行列を見て、イエスが立ち上がって叫ばれた「渇いている人はだれでも、私の所に来て飲みなさい」。
-ヨハネ7:37‐39「祭が最も盛大に祝われる終わりの日に、立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだれでも、私のところに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったのである。」
・人は宗教行事を行うことによって救われると誤解する。しかし、救いは信仰から来る。誰が命をもたらし、命を維持しておられるのかと言う信仰の本質を離れた時に、宗教は形式に陥ってしまう。
―申命記8:2-4「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。・・・主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。」
・人はどのようにして「生けるキリスト」に人は出会うのだろうか。挫折や苦しみを通して、「自分の魂が飢え渇いている」ことを知らされた時だ。ヨハネ4章「サマリアの女」もそうだ。彼女にイエスは言われた「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」(ヨハネ4:13-14)。女は直ちに反応した。「その命の水を私に下さい」。ヨハネ7章と同じテーマ「生ける命の水」がそこにある。ヨハネ7章が私たちに教えるのは、イエスを信じることにより、生ける水がその人から湧き出し、それは自分の渇きを癒やすだけではなく、その生命の水は周囲の人をも潤していくということだ。