1.「良い羊飼い」の喩え
・羊飼いの喩えは9章から続く文脈の中で語られている。9章でイエスは生まれつき盲人の目を開けられたが、その日が安息日だったため、ファリサイ派の人々は、イエスを安息日戒律の違反として責めた。イエスは反論された「あなたがたは何故、一人の人の目を神が開けて下さった、その良い業を喜ばないのか。あなたがたが思うのは自分のことばかりであり、託された羊のことではない。あなたがたは良い羊飼いではない」として、この喩えが語られている。羊は民衆、羊泥棒はファリサイ人、良い羊飼いはイエス、という譬えで語られているが、ファリサイ人は真意を理解できなかった。
-ヨハネ10:1‐6「『はっきり言っておく、羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。』イエスはこの喩えをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話しが何のことか分からなかった。」
・ヨハネ10章には二種類の羊飼いが出てくる。最初は「雇い人の羊飼い」だ。雇い人は報酬のために働くから、狼=困難な情況が来ると逃げてしまう。イエスの時代、神殿には多くの祭司が仕え、民のために犠牲の動物を捧げていたが、民が困窮しても気にかけることはなかった。祭司にとって、自分の生活の方が大事だった。ファリサイ人も律法厳守を唱えるが、それは自分の正しさが証明されるためであり、そのことによって民が困っても配慮せず、律法を守ることの出来ない人々=羊を“罪人”として排除していた。
-ヨハネ10:7‐10「イエスはまた言われた『はっきり言っておく。私は羊の門である。私より前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。私は門である。私を通って入る者は救われる。その人は門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。私が来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。』」
・良い羊飼いは「羊のために命を捨て」る。荒野では獣が羊を狙い、襲って来る。羊飼いは杖で獣と戦い、羊を守り、場合によってはそのために命を落とす。良い羊飼いの最大の関心は自分ではなく羊であり、羊のために命を捨てても悔いない。
-ヨハネ10:11‐16「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。狼は羊を奪い、また追い散らす。彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。それは、父が私を知っておられ、私も父を知っているのと同じである。私は羊のために命を捨てる。私には、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ一つの群れになる。」
2.イエスの独白とヨハネ教会の説教
・イエスは実際に、彼の群れのために十字架で命を捨てられた。命がけで羊を守るのが羊飼いの不可欠の条件である。そのために私は死ぬとイエスは宣言される。
-ヨハネ10:17‐18「『私は命を、再びうけるために、捨てる。それゆえ、父は私を愛してくださる。だれも私から、命を奪い取ることはできない。私は自分でそれを捨てる。私は命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、私が父から受けた掟である。』」
・イエスの説教は、ユダヤ人の評価を二分し、彼らの間に対立する意見が生じた。
-ヨハネ10:19‐21「この話を巡って、ユダヤ人の間に対立が生じた。多くのユダヤ人は言った。『彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。』ほかの者たちは言った。『悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。』」
・ヨハネ福音書が書かれた紀元90年ごろ、ヨハネの教会はユダヤ人社会から“異端”として迫害されていた。クリスチャンであることがわかれば会堂から追放され(9:22)、場合によっては殉教の危険さえあった。そのため多くの信徒が教会から離れて行き、その中には教会の指導者たちもいた。ヨハネは「良い羊飼い」としてのイエスの説話を紹介しながら、教会の信徒たちに、「例え指導者が脱落することがあっても、それは彼が雇い人の牧者であるからであって、真の牧者キリストは私たちと共にいてくださり、私たちのために命を再び捨ててくださる方だ」と述べている。ヨハネは紀元30年頃のイエスとファリサイ人との議論を下に、紀元90年代の迫害下で苦闘する教会員に呼びかけている。
3.ユダヤ人、イエスを拒絶する
・羊飼い論争が為されたのは10月の仮庵の祭りの時だった。それから2ヵ月後の神殿奉献記念祭(12月)にイエスがエルサレムに上られた時、ユダヤ人は再び論争を仕掛けてきた。ユダヤ人は、イエスを取り囲み、イエスがメシアであるかないか問い詰めた。彼らはその問いをすでに何度も繰り返していた。
-ヨハネ10:22-26「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。イエスは神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。『いつまで、私たちに気をもませるのか。もし、メシアならはっきりそう言いなさい。』イエスは答えられた。『私は言ったが、あなたたちは信じない。私が父の名によって行う業が、私について証ししている。しかし、あなたたちは信じない。私の羊ではないからだ。』」
・ファリサイ人には分からなくても、羊である民はイエスの声を聞き分けている。
-ヨハネ10:27‐30「私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う。私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らを私の手から奪うことはできない。私の父が私に下さったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。私と父とは一つである。」
・イエスは自らを「神の子」と称した。それは神への冒瀆であるとファリサイ人は非難する。
-ヨハネ10:31‐33「ユダヤ人たちはイエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。するとイエスは言われた。『私は父が与えてくださった多くの良い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。』ユダヤ人は答えた。『良い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒瀆したからだ。あなたは人間なのに、自分を神としているからだ。』」
・イエスは詩篇82編を根拠にユダヤ人に反論された(詩編82:6‐7「私は言った。『あなたたちは神々なのか、皆、いと高き方の子なのか』と。しかし、あなたたちも人間として死ぬ。君候のように、いっせいに没落する。」)。ダビデも人々のことを「神の子」といっているではないかと。
-ヨハネ10:34‐38「そこでイエスは言われた。『あなたたちの律法に、「私は言う。あなたたちは神々である」と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人々が「神々」と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。それなら、父から聖なる者として世に遣わされた私が、「私は神の子である」と言ったからとて、どうして、「神を冒瀆している」と言うのか。もし、私が父の業を行っていないのであれば、私を信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、私を信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父が私の内におられ、私が父の内にいることは、あなたたちは知り、また悟るだろう。』」
・ユダヤ人たちは受入れない。イエスはエルサレムを去って、ヨルダン川の向こう岸に逃れられた。イエスの宣教はガリラヤでも、エルサレムでも受入れられなかった。しかし、荒野において、人々はイエスのもとに来て、話を聞き、イエスを信じた。
-ヨハネ10:39-40「ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。多くの人がイエスのもとに来て言った。『ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった』。そこでは、多くの人がイエスを信じた。」
・「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」、イエスは命を捨てられ、それに続く弟子たちも命を捨ててきた。そのことによってキリストの教えは人々に継承され、今日にまで至っている。
-ヨハネ21:17-19「イエスは言われた『私の羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる』。ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに『私に従いなさい』と言われた」。