聖書教育の学び

2020年2月9日聖書教育の学び(2015年4月15日祈祷会、ヨハネ8:12-38、世の光イエス)

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1.イエスは世の光

 

・ヨハネは7:52で中断された物語を8:12から続ける。仮庵祭の夜は、神殿の庭の大燭台に灯が灯され、「神殿の照明の儀式」が行われた。儀式は夜を徹して続き、鶏の鳴く翌朝まで、神の前に舞踏と賛美が捧げられた。イエスの「世の光の説教」は、この祭の光を背景に行われた。

-ヨハネ8:12‐15「イエスは再び言われた。『私は世の光である、私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。』」

・イエスが「私は世の光である」と言うと、ファリサイ人は敵愾心を露わにした、

-ヨハネ8:13‐15「それで、ファリサイ派の人々が言った。『あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。』イエスは答えて言われた。『たとえ私が自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分はどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、私は知っているからだ。しかし、あなたたちは、私がどこから来てどこへ行くのか知らない。あなたたちは肉に従って裁くが、私はだれをも裁かない。』」

・「イエスは神から遣わされた」、だから「父なる神」が私の証人であると語られるが、人々は理解しない。

-ヨハネ8:16‐18「しかし、もし私が裁くとすれば、私の裁きは真実である。なぜなら私は一人ではなく、私をお遣わしになった父と共にいるからである。あなたたちの律法では、二人が行う証しは真実であると書いてある。私は自分について証ししており、私をお遣わしになった父も私について証しして下さる。」

・ファリサイ人らはイエスを「神の子」と認めない。だから論争は解決しない。

-ヨハネ8:19‐20「彼らが、『あなたの父はどこにいるのか』と言うと、イエスはお答えになった。『あなたたちは、私も私の父も知らない。もし、私を知っていたら、私の父をも知るはずだ。』イエスは神殿の境内で教えておられた時、宝物殿の近くでこれらのことを話された。しかし、だれもイエスを捕えなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。」

・「私は命の水である」、「私は命のパンである」、「私は世の光である」、ヨハネ福音書のイエスは、繰り返し「私は~である」と言われる。「私はある=ギリシア語エゴー・エイミー」は、「ヘブライ語=アニー・フー」の翻訳である。それは旧約聖書においては、神顕現のしるしとして用いられている。「イエスは神の子」であるという主張が、ヨハネに「エゴー・エイミー」という言葉を語らせる。イエスを「神の子」と認めるかどうかが、ユダヤ教徒とキリスト教徒を分けるしるしだ。

-出エジプト記3:13-14「モーセは神に尋ねた。『私は、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、あなたたちの先祖の神が、私をここに遣わされたのですと言えば、彼らは、その名は一体何かと問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか』。神はモーセに、『私はある(アニー・フー)。私はあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。私はあるという方が私をあなたたちに遣わされたのだと』」。

 

2.真理はあなたたちを自由にする

 

・イエスは「私の言葉に留まるならば、あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と言われた。ここで「自由」として使われている言葉は「エレウセロス=自由人」という言葉で、奴隷(ドウーロス)に対応する言葉だ。真理を知れば「あなたたちも奴隷ではなく、自由人になる」とイエスは言われた。だから、聞いているユダヤ人たちは反論した「私たちは自由人だ。誰の奴隷でもない」。

-ヨハネ8:31‐33「イエスは、御自分を信じたユダヤ人に言われた。『私の言葉に留まるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。』すると、彼らは言った。『私たちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。「あなたたちは自由になる」とどうして言われるのですか。』

・彼らは社会的には自由人だ。誰かの奴隷ではない。でも「あなたたちは本当に自由なのか。あなたたちは罪の奴隷ではないのか、罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」とイエスは問われる。

-ヨハネ8:34‐36「イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし、子があなたがたを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。』」

・私たちは本当に自由なのか。私たちは罪の縄目の中もがいているのではないか。聖書では罪とは神から離れることを意味する(罪=ハマルテイア、的から外れる)。神なき場所では、人間は人間しか見えない。他者が自分より良いものを持っていれば欲しくなり(=貪り)、他者が自分より高く評価されれば妬ましくなり(=妬み)、他者が自分に危害を加えれば恨む(=怒り、恨み)。神なき世界では、この貪りや妬み、恨みという人間の本性がむき出しになり、それが他者との争いを生み出していく。罪の思いが争いとなり、争いが死を招き、死が新しい罪を生んでいく。神なき世界では、この罪―死―罪という悪循環を断ち切ることが出来ない。この罪の縄目から自由になるためには、人間が再び神を見上げることしかない。

―ローマ3:10-18「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。」

・戦後、日本は自由になった。しかし、私たちは、その自由を「何をして良い自由」だと誤解した。その結果起こったことは、みんなが勝手にやりたいことを行い、社会においては地域が崩壊して、隣に誰が住んでいるのかも知らない社会になってしまった。家庭においてもみんなが勝手に行為するために、家族はばらばらになり、離婚が増え、子供たちの犯罪が増えた。私たちは行動の自由を得たかもしれないが、少しも自由になっていない。「あなたたちは自分が自由だと思っているが、実はまだ罪の縄目の中に閉じ込められているのではないのか」というイエスの問いかけに、私たちはどのように答えるのだろうか。

・「イエスは復活を通して神の子であることが明らかにされた」と信じるヨハネ教会と、「イエスは偽メシアに過ぎない」とするユダヤ教会では対話は成り立たない。イエスをどのような方として受け入れるか、今日の教会でも議論は分かれる。しかしヨハネは明確に言う「イエスは神の子であった」と。

-ヨハネ1:1-5「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」。

-聖書教育の学び

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