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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

聖書教育の学び

2020年11月22日聖書教育の学び(2015年7月16日祈祷会、コヘレト12章、青春の日にあなたの創造者を覚えよ)

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1.青春の日にあなたの創造者を覚えよ

 

・人は生まれ、育ち、成人し、最後には老いて、体が動かなくなり、楽しめなくなる時が来る。だから「青春の今を楽しめ」、「為すべきことを今、為せ」とコヘレトは若者たちに語る。

-コヘレト11:9「若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ。心にかなう道を、目に映るところに従って行け。知っておくがよい、神はそれらすべてについて、お前を裁きの座に連れて行かれると。心から悩みを去り、肉体から苦しみを除け。若さも青春も空しい」。

・「体が動かなくなり、楽しめなくなる時が来る」前に、「あなたの若いうちに、あなたの創造主を覚えよ」とコヘレトは勧める。コヘレトが神と出会う場は、日々のささやかな愉悦においてである(3:12「私は知った、人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ることだ、と」)。しかし老年になればそれも不可能になる。だからそれが出来なくなる時の前に、神の与えてくださった楽しみを楽しめと彼は語る。

-コヘレト12:1-2「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに。太陽が闇に変わらないうちに。月や星の光が失せないうちに。雨の後にまた雲が戻って来ないうちに」。

・人は必ず老いる。その老いの怖さは、身体能力の低下だ。老年になれば、手が震え、足はたわみ、歯は抜け、目は霞んでいく。

-コヘレト12:3「その日には、家を守る男も震え、力ある男も身を屈める。粉ひく女の数は減って行き、失われ、窓から眺める女の目はかすむ。通りでは門が閉ざされ、粉ひく音はやむ。鳥の声に起き上がっても、歌の節は低くなる」。

・京都ノートルダム女子大学・村田久行氏は老年期を三つの喪失としてとらえる。1.「時間存在の喪失」、2.「関係存在の喪失」、3.「自律存在の喪失」である。

人は、時間存在の面からは、「もうじき死ぬのだから、何をしてもしょうがない」と捉え、将来を失うことで現在を生きる気力も失う。また「死んだら何も残らない、孤独だ、誰もわかってくれない」といった、他者との人間関係を失うことで自己存在の意味を喪失する。さらに「人の世話になって迷惑かけているのは、何の役にも立たず、生きている値打ちがない」といった、自立・自律性を失うことで依存的な自分を否定する傾向がある。パウロは「外なる人は衰えても内なる人は日々新たにされる」と述べる。この言葉は、身体能力の低下が精神上の喪失感を生んでいる現代社会に対する救済の言葉になりうるのではないか。

-第二コリント4:16-18「だから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます・・・私たちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」。

・日本基督教団では信徒総数182,418人、現住陪餐会員90,184人に対し、礼拝出席者56,240人である。その教会員の年齢構成は30歳未満6.4%、30歳代10.2%、40歳代13.2%、50歳代18.2%、60歳以上52.1%と、一般社会を大きく超える高齢化が進んでいる。新しい人の加入が少ないからである。統計から見ると、日本の教会は限界集落化している。老いの問題は教会全体で取り組むべき課題だ。

*限界集落:65歳以上の高齢者が50%を超えた時、その共同体は消滅に瀕する。

 

2.死を超えた命はあるのか

 

・老いの後に来るものは死だ。コヘレトは死を喪失ととらえる。

-コヘレト12:5-7「人は高いところを恐れ、道にはおののきがある。アーモンドの花は咲き、いなごは重荷を負い、アビヨナは実をつける。人は永遠の家へ去り、泣き手は町を巡る。白銀の糸は断たれ、黄金の鉢は砕ける。泉のほとりに壺は割れ、井戸車は砕けて落ちる。塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る」。

・高橋秀典氏は12:6-7を次のように意訳する(伝道の書、翻訳と解説)。

-コヘレト12:6-7「銀のくさり(美しい命)が切れ、金の器(かけがいのない体)が砕かれ、水瓶が泉のほとりで割れ(心臓が止まり)、井戸車が井戸で砕かれ(循環機能が止まり)、塵は元の地に帰り、霊(息)はそれを下さった神に帰る」。

・コヘレトにとって死はすべての終わりである。人間だから特別の場所に行くという希望は彼にはない。

-コヘレト3:19-21「人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。同じ霊をもっているにすぎず、人間は動物に何らまさるところはない。すべては空しく、すべては一つのところに行く。すべては塵から成った。すべては塵に返る。人間の霊は上に昇り、動物の霊は地の下に降ると誰が言えよう」。

・だから彼にとっては「すべては空しい」。「空」で始まったコヘレト書は、「空」で終わる。

-コヘレト12:8「なんと空しいことか、とコヘレトは言う。すべては空しい、と」。

・それに対して、新約聖書はイエスの復活に望みをかける。パウロは虚無に苦しむ被造物にイエスの復活の希望が与えられて、物事は根底的に変わったと理解する。

-ローマ8:20-25「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。被造物だけでなく、"霊"の初穂をいただいている私たちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。私たちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。私たちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」。

 

  1. コヘレト書と現代

 

・12:9以下はコヘレト書編集者による最後のまとめだ。編集者は、コヘレト書は人生における「突き棒」、あるいは「釘」とする。世の不条理を見つめて、その中に生きる意味を見出そうとする行為は苦痛に富む。

-コヘレト12:9-11「コヘレトは知恵を深めるにつれて、より良く民を教え、知識を与えた。多くの格言を吟味し、研究し、編集した。コヘレトは望ましい語句を探し求め、真理の言葉を忠実に記録しようとした。賢者の言葉はすべて、突き棒や釘。ただ一人の牧者に由来し、収集家が編集した」。

・コヘレトが説くように、世の中は不条理に満ちている。「人の命は地球より重い」とうそぶきながら、紛争地のシリアやイランで毎日死んでいく人のことを誰も真剣には考えようとはしない。

-コヘレト4:1-3「私は改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。見よ、虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はない。見よ、虐げる者の手にある力を。彼らを慰める者はない。既に死んだ人を、幸いだと言おう。更に生きて行かなければならない人よりは幸いだ。いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから」。

・しかし、コヘレトの語る真髄は、編集者のいう「神を畏れ、その戒めを守れ」ではない。それは箴言作者には妥当でも、コヘレト書には妥当ではない。

-コヘレト12:12-14「それらよりもなお、わが子よ、心せよ。書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば体が疲れる。すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ』、これこそ、人間のすべて。神は、善をも悪をも、一切の業を、隠れたこともすべて、裁きの座に引き出されるであろう」。

・神の為さることが見えない、神の摂理を信じきる事ができない。それを素直に認め、なおかつ神を求める所にコヘレト書の良さがあるのではないか。

-コヘレト11:5-6「妊婦の胎内で霊や骨組がどの様になるのかも分からないのに、すべてのことを成し遂げられる神の業が分かるわけはない。朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか、それとも両方なのか、分からないのだから」。

・コヘレトは伝統的な神を否定する。伝統的な神概念は、歴史に目標を与え、人の行いに対し因果応報を司り、また来世に置いてすべての償いをする神であった。しかしそのような神を否定し、探求の末にコヘレトが見出した神は、歴史を導く神ではなく、道徳的行為に審判を下す神でもなく、死後の世界を支配する全能者でもなかった。そうではなく、ただ日々のささやかな愉悦の中に見出される存在に過ぎず、それ以外の場所では隠れ、見出せない存在であった。従って、神と出会っても、なお「人生は空しい」ままである。絶対他者としての神に出会っていないコヘレトは、相対他者としての人に出会うこともないのだ。

-聖書教育の学び

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