1.私の助けは天地を造られた主から来る
・詩編121編は数ある詩篇の中でも特に愛唱されてきた。日本では別所梅之助訳で讚美歌となり、「山辺に向かいてわれ」(新生讚美歌435番)として親しまれている。元々の詩はエルサレムの神殿への巡礼の時に歌われた歌だ。
-詩篇121:1-2「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る」。
・この歌は、イスラエルの人々がバビロンに捕囚となり、やがてエルサレムへの巡礼が許されるようになった時代のものと言われている。祖国は悲嘆のどん底にあった。イスラエルの民は、「イスラエルが滅ぼされたのはその神がバビロンの神より弱かったからだ」と嘲る異邦人の声に、信仰が揺らいでいた。その中で遠いバビロンから巡礼してきた詩人は、エルサレムに近づき、シオンの山々を臨み、孤独と不安の中で見上げる「あなたは私たちの国を滅ぼされた、あなたは今でも私たちの神であられるのか、あなたは今でも私たちを愛しておられるのか」と。その問いかけに、詩人の魂は答える「私の助けは来る、天地を造られた主のもとから」と。助けは人からも自然からも来ない、助けはただ天地を造られた神からのみ来ると詩人は歌う。
・詩人の叫びに応答するように共に巡礼する仲間の声が聞こる「どうか、主があなたを助けて、足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守ってくださるように」。詩人はその呼びかけに応える「見よ、イスラエルを見守る方は、まどろむことなく、眠ることもない」。
-詩篇121:3-4「どうか、主があなたを助けて、足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守ってくださるように。見よ、イスラエルを見守る方は、まどろむことなく、眠ることもない」。
・多くの詩編が捕囚時代に書かれた。捕囚とされた彼らは失意の中で、エルサレムの神を慕い求めていた。
-詩編137:1-5「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、私たちは泣いた。竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた・・・どうして歌うことができようか、主のための歌を、異教の地で。エルサレムよ、もしも私があなたを忘れるなら、私の右手はなえるがよい」。
・捕囚地で祈り続けている内に、「神はこの地にもおられる、この地でも私たちを見守っていて下さる」ことに人々は気づいた。この時、「イスラエルの神」が、実は天地を創造され、支配しておられる「天地の神」であることに気づき、彼らは神の歴史を創世記、出エジプト記等の形でまとめ、聖書を編纂していった。エルサレムへの帰還を許された彼らは神殿を再建し、神殿で歌うための讃美歌として詩編を編集していく。彼らは捕囚地で共におられる神に出会った。だから詩人は歌う「見よ、イスラエルを見守る方は、まどろむことなく、眠ることもない」。詩人は続ける「昼、太陽はあなたを撃つことがなく、夜、月もあなたを撃つことがない」と。
-詩篇121:5-6「主はあなたを見守る方、あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。昼、太陽はあなたを撃つことがなく、夜、月もあなたを撃つことがない」。
・砂漠の地において、昼は灼熱地獄であり、太陽は大いなる脅威だ。主はあなたを太陽の熱から守り、あなたを覆って下さる。また、砂漠の地において、夜は急激に温度が下がり、月の寒気が人を襲う。その寒さからも主はあなたを守ってくださると詩人は歌う。巡礼の仲間はそれに呼応して歌う。
-詩篇121:7-8「主がすべての災いを遠ざけて、あなたを見守り、あなたの魂を見守ってくださるように。あなたの出で立つのも帰るのも、主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに」。
・この詩篇で注目すべき言葉は、ヘブル語「シャーマール、見守る」という言葉だ。この言葉が短い詩の中に、6回も繰り返し現れてくる。私たちを創造された主は「今も働きたもう神」であり、常に私たちを「見守ってくださる神」であるとの信仰が、この言葉に込められている。
2.この詩篇を私たちはどう読むか
・詩人は「自分たちは神の見守りの中にある」とその信仰を歌った。詩人の置かれた状況は容易ではない。イスラエルはバビロンに滅ぼされ、人々は離散し、異郷において神の住まいエルサレムを偲んだ。亡国とは何処に行っても、安住の地はない状況だ。その中で詩人は「わが助けは、天と地を造られた主から来る」と歌う。生活の土台が崩されている中で、なお神を讃えることができるかがここで問われている。
・詩篇の中には病を癒された感謝の歌も多い。詩編103編もその一つだ。
-詩篇103:1-5「私の魂よ、主をたたえよ。私の内にあるものはこぞって聖なる御名をたたえよ。私の魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け、長らえる限り良いものに満ち足らせ、鷲のような若さを新たにしてくださる」。
・重い病にかかって癒されれば誰でも感謝する。しかし、ある人は治療の甲斐なく、天に召されていく。癒されずに天に召される時にも、主に感謝することのできるかが問われる。主を畏れる人の死は死であって死ではなく、信仰者にとって天に召されることは神の御許に帰ることだと信じる時、私たちの人生は神の平安の中に包まれる。これは人生の基本問題だ。何故ならば、死はすべての人が経験しなければいけない試練だからだ。
・最後に詩篇121編を読んだ人の感想を記したい。
-うつ病退職からの再生の記録「昨晩も前職会社の夢をみた。なぜか、前職会社への復帰話しがあり、自分は嫌なのに周囲が強引に進めていく話しである。そして、抵抗できない自分がいた。顔さえ見るのが嫌な経営者が出てきた時に目が覚めた。ほっとした。今日は詩篇121篇が与えられた。『主は今からとこしえに至るまで、あなたの出るところと入るところを守られるであろう』。私の生活はまだまだ不安定である。そこには脱しきれない無力感と、逆に仕事を復活できるかどうかの不安がある。昨晩のような夢をみたら余計に思う。またうつを再発とか、怒鳴られたりとかいじめられたりとかである。しかし、この御言葉があれば 強く立てる。いくら厳しい場所にあっても、主に祈り寄り頼めばなんとかなるのではないかと思う。また、『荒野』に一歩踏み出すことが大切になる。『主はあなたを守って、全ての災いを免れさせ、またあなたの命を守られる』、 その言葉を信じて、日々御言葉を聞き、祈って生きたい」。
・宗教改革者マルティン・ルターはこの121編を読んで言った「信仰とはいろいろの知識を頭の中に詰め込むことではない。ただひたすら神の約束を信じて進んでいくことである」と。「うつ病退職からの再生の記録」を書いた人は詩編121編を見事に理解している。詩編121編は苦難の中で読まれてこそ、その輝きを増す詩編だ。