江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

お知らせ

聖書の学び会へのご案内

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篠崎キリスト教会では、毎週土曜日13時-15時に、聖書の学び会を公開で開催しています。現在10名ほどの方が参加されていますが、そのうち4名はネット(zoom)でのご参加です。目的は教会内外の方たちと、聖書をじっくり読み、語り合うことです。参加費は無料です。

現在は創世記原初史を読んでおります。聖書学は原初史についてどのように教えるのか、私たちはどのように読むかを議論しています。私たちが創世記の物語を、単なる神話として受け止めた時、この物語は私たちとは無関係なものとなります。これを、私たちに語りかけられた神の言葉として受け入れた時、人はなぜ他者を愛することが出来ないのか、なぜ最愛の人さえも裏切ってしまうのかという人の本質が問われ、自分の本当の姿、罪が明らかになります。「神との関係が断たれた時、他者との関係も断たれてしまう」ことを知り、関係の正常化、罪からの赦しと解放を求めるようになります。創世記の創造物語は、単なる神話ではなく、私たちが人生を、社会を考える上で、多くの素材を提供する物語です。

参加ご希望の方は川口までご連絡ください。テキスト(PDF)とzoomIDを送ります。川口アドレスはmk24@biglobe.ne.jpです。

 

*参考までにテキストの最初の部分を添付します。

1.創世記1章、天地の創造 1.1天地創造の始め

・創世記1章は天地創造の記事であり、その1-2節は創造前の世界がどのようであったかを記している。

-創世記1:1-2「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」。

・神が天地を創造される前には、世界は闇の中にあって、混沌としていた(口語訳「地は形なく、むなしく」)。そこに「光あれ」という神の言葉が響くと光が生まれ、混沌(カオス)が秩序あるもの(コスモス)に変わっていったと創世記は語る。

-創世記1:3-5「神は言われた『光あれ』。こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である」。

・創造の前、「地は形無く、空しかった」。「形無く、空しく」(ヘブル語=トーフー(形なく)・ワ(そして)・ボーフー(空しく))は旧約聖書で3回しか使われない特別な言葉である(創世記1:2,イザヤ34:11,エレミヤ4:23)。文献学的研究によれば、創世記1章は紀元前6世紀に書かれた祭司資料からなる。イスラエルはバビロニアによって征服され,首都エルサレムは壊滅し、王族を始めとする主要な民は、捕虜として敵地バビロンに連れて行かれた(バビロン捕囚)。この捕囚地での新年祭にバビロニアの創造神話が演じられ、イスラエル人は屈辱の中でそれを見た。何故神は、選ばれた民である私たちイスラエルを滅ぼされ、敵地バビロンに流されたのかと捕囚民は考えることを迫られた。

・捕囚期の預言者エレミヤは「私は見た。見よ、大地は混沌とし、空には光がなかった」と歌った。この「混沌」が「トーフー・ワ・ボーフー」だ。バビロンの創造神話を克服するものとして、創世記1章の創造物語が書かれている(1:1「水」はテホームであり、バビロン神話では「混沌の海(テホーム)」が創造神により制圧され、その上に大地が据えられて、世界秩序が確立する)。

―エレミヤ4:23-26「私は地を見たが、それは形がなく、また空しかった。天を仰いだが、そこには光がなかった・・・人は一人もおらず、空の鳥はみな飛び去っていた。私は見たが、豊かな地は荒れ地となり、そのすべての町は、主の前に、その激しい怒りの前に、破壊されていた」。

・「自分たちは滅ぼされた、神に捨てられた」、神の怒りにより自分たちの国は滅ぼされ、異国の地に捕囚となっている。絶望の闇がイスラエル民族を覆っていた。しかし、神が「光あれ」といわれると光が生じ、闇が裂かれた。現実の世界がどのように闇に覆われ、絶望的に見えようと、神はそこに光を造り、闇を克服して下さる方だとの信仰告白がここにある。「主よ、あなたは私たちに再び光を見せて下さるのですか。私たちを赦して下さるのですか」。そのような祈りが創世記1章の言葉の中に込められている。

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