1.アブラハムの模範
・パウロは3章において神の義は「信じる」ことにより成り立つと述べたが、4章ではその例をアブラハムにより説明する。「肉による私たちの先祖」とは、イスラエル民族の始祖アブラハムを指すが、アブラハムは肉による「ユダヤ人の始祖」であるだけではなく、「信仰の始祖」でもあるとパウロは言う。
-ローマ4:1-2「では、肉による私たちの先祖アブラハムは何を得たというべきでしょうか。もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。」
・アブラハムが救われたのは、行いによってではなく信仰によってであったと、パウロは創世記15章6節(アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた)を引用して強調している。
-ローマ4:3『聖書には何と書いてありますか。『アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた』とあります。』
・パウロはここで信仰による義を語っている。それは、良い行いや良い業をしなくても、ただ信仰により救われるという大胆な教えである。
-ローマ4:4-5「働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべき報酬と見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」
・パウロは「アブラハムが信仰によって義とされたのと同じことがダビデにも起こっている」と、詩編32編1-2節を引用して語る。ダビデは部下ウリヤ妻バト・シェバを奪い、彼を戦死させ、その罪を預言者ナタンに指摘され、苦しんだ。パウロがここで主張したいのは、アブラハムもダビデも行いによらず、信仰により神に義と認められたということだ。
-ローマ4:6-8「同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のように称えています。『不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。主から罪があると見なされない人は、幸いである。』」
・パウロは問う「神に義と認められる幸いは割礼の有無を問わない」のではないか。神がアブラハムの義を認められた記事は創世記15章にあり、神はアブラハムに「あなたの子孫は星の数のようになるだろう」と祝福され、アブラハムがそれを信じた故に、彼を義と認められた。アブラハムとその家族全員が割礼を受けたのは、その20年後であった。
-ローマ4:9-10「では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。私たちは言います。『アブラハムの信仰が義と認められた』のです。どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。」
・パウロは、アブラハム自身が割礼の無いまま信仰の父となったと述べ、割礼が信仰の前提条件ではないと力説している。この「割礼」を「洗礼」と読み替えれば、現代の私たちの問題になる。
-ローマ4:11-12「アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人々の父となり、彼らも義と認められました。更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、私たちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父となったのです。」
2.創世記に見るアブラハムの信仰
・パウロは、4章において、信仰の本質は何かについて語っている。パウロは信仰の本質を、信仰に生きた実在の人間、アブラハムの生涯を通して語っている。創世記12章からアブラハムの生涯が記されている。彼は75歳の時に召され、故郷を捨てて旅立ち、約束の地に導かれた。神はアブラハムに祝福を約束された。
-創世記13:15-16「見える限りの土地をすべて、私は永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないようにあなたの子孫も数えきれないであろう。」
・その時アブラハムには子がいなかったが、彼は約束を信じ、それ故に「義とされた」と創世記は語る。
-創世記15:5-6「『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい』。そして言われた『あなたの子孫はこのようになる』。アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」。
・神は、アブラハムに「あなたの子孫は天の星のように増える」と約束された。アブラハムは子の誕生を待ち続けるが、約束は実現されず、アブラハム夫妻は老人になってしまう。信仰が、現実の厳しさの中で揺さぶられ、アブラハムは妻サラではなく、侍女ハガルを通して男子イシュマエルを生む。
-創世記16:15-16「ハガルはアブラムとの間に男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだ男の子をイシュマエルと名付けた。ハガルがイシュマエルを産んだ時、アブラムは八十六歳であった。」
・しかしイシュマエルは約束の子ではなかった。神はアブラハムに「妻サラを通して子が生まれる」と語る。サラは90歳だった。アブラハムは信じられず、ひそかに笑う「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳の妻に子供が産めるだろうか」。
-創世記17:15-17「神はアブラハムに言われた。『あなたの妻サライは、名前をサライではなく、サラと呼びなさい。私は彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。私は彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る。』アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。『百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。』」
・今日の日本では妊娠によりキャリア断絶を回避するために、卵子の冷凍保存を行う女性が増え、20歳台で採取し、40歳台で出産する人も出て来たが、しかし成功可能性は10-20%と低い。医師は語る「一人の女性として、妊娠・出産に対して、選択肢が広がるのはいいことだと思う。日本生殖医学会は、『採取時の年齢は、40歳以上は推奨できない。使用時の年齢は、45歳以上は推奨できない』としている。倫理的には、将来パートナーとなる人の意思の問題もある。子を持つことは自分一人の出来事ではない」(NIKKEI STYLE(健康・医療)2016年9月12日から)。「子を持つことは自分一人の出来事ではない」、人は出産さえも自分の制御下にあると過信するが、そうだろうか。「九十歳のサラが子を産んだ」奇跡をどう考えるべきか。
・不信のアブラハムに、神は高齢の妻を通してイサクを授けられた。すべてのことはアブラハムの努力ではなく、神の恵みでなされた。故に、アブラハムは恵みに感謝して割礼を受けた。
-創世記17:9-10「あなたも、私の契約を守りなさい、あなたも後に続く子孫も。あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、私との間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける」。
3.信仰義認
・パウロがローマ書で主張したことは、「福音は無条件の救いである」ということである。愛に条件をつければそれは「条件付きの愛」であり、福音ではなくなる。プロテスタント教会は、ローマ書でパウロが呈示した信仰義認を、「アウグスブルク信仰告白」(1530年)として明文化した。信仰義認こそがプロテスタント教会の信仰の基礎である。
-アウグスブルク信仰告白第4条「信仰によって、代償なく、神の恵みによって義とされる。」
・アブラハムが義とされたのは、彼が「信じて従った」からであった。信仰が先にあり、割礼は後である。だからパウロは、「割礼は救いの条件ではなく、救われたしるし」と語っている。現代の割礼である洗礼もそうだ。「人は洗礼によって救われるのではなく、信仰を告白し、その応答として洗礼を受ける」。
-ガラテヤ6:15「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」。
・アブラハムは神の約束を信じることが出来なかった。アブラハムの不信仰にかかわらず、神はサラの胎を開き、彼女は妊娠し、イサクを生む。90歳の女性が子を生んだ。創世記はアブラハムとサラが、神の約束を信じ続けることが出来なかったことを隠さない。それにもかかわらず、神はアブラハムを祝福された。アブラハムが「主に不可能なことはない」と信じるに到ったのは、「子が生まれる」という約束の実現を目の前に見たからだ。
・アブラハムは自分の力量や努力で正しい者となったのではない。不信の者を信じる者にするために、神はアブラハムに祝福を与えて下さった。旧約時代のアブラハムはキリストを知らなかったが、神を信じた。新約時代の私たちは、キリストの生と死、苦難と復活を歴史的な出来事として知っている。だから私たちは、「イエスの十字架と復活を通して救う」という神の約束を信じる。「信仰に死んだアブラハムを生き返らせて下さった神は、死んだイエスをも生き返らせて下さった、そして死すべきあなたにも永遠の命を与えることが出来る」とパウロは言う。
-ローマ4:23-25「『それが彼の義と認められた』という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、私たちのためにも記されているのです。私たちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、私たちも義と認められます。イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義とされるために復活させられたのです。」