- 肉に従って歩む人生、霊に従って歩む人生
・パウロは、ロ-マ8章を「従って」という接続詞で語り始め、7章からのテ-マを語り継いでいる。パウロは、「律法は正しく良いものであると認識しながらも、それを行いたいと願う自分と、行いえず否定してしまう自分との葛藤」に悩み続けている。ロ-マ書が現代人にもインパクトを持つのは、その葛藤を現代人も共有しているからである。
-ロ-マ8:1-2「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死の法則からあなたを解放したからです。」
・人間の本性は他者と争って、自分の生存を確保することだ。必然的に争いが生じ、その争いが様々な罪を生んでいた。かつての私たちは「罪と死の法則」の下にあった。
-エフェソ2:1-3「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいた。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいた。私たちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者だった」。
・パウロは自分自身の中の霊と肉の葛藤に打ちのめされている。
-ロ-マ8:3「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを神はして下さったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。」
・イエスは故郷ナザレで伝道を始められた時、「人々は罪のために死の縄目の中にいる。その人々を解放し、自由を与えるために、私は来た」(ルカ4章)と宣言された。キリストが来て、死んで下さった事により、私たちはこの地獄から解放された。
-ルカ 4:18-19「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。
・律法が肉の弱さのため越えられなかった壁を超えることを可能にしたのは、「人の罪を取り除く御子イエス・キリストを、神が世に遣わして死んでくださったからだ」とパウロは語る。
-ロ-マ8:4-6「それは、肉ではなく霊に従って歩む私たちの内に、律法の要求が満たされるためでした。肉に従って歩む者は、肉に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。」
2.肉の思いは死であり、霊の思いは命である
・肉に従う者は肉に属することを思い、霊に従う者は霊に属することを思う。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和である。
-ロ-マ8:7-9「なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者が神に喜ばれるはずはありません。神の霊があなたがたの内に宿っている限り、あなたがたは肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。」
・神の霊に従うか、肉の欲に従うかにより、人は明瞭に分かたれる。それを分かつ鍵となるのが、キリストがその人の内に居るか居ないか、つまり信仰があるかないかである。
-ロ-マ8:10「キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。」
・肉の思いとは「自己を中心に考える思い」だ。ボスニアではユーゴスラビア解体までは、セルビア人もボスニア人も、キリスト教徒もイスラム教徒も、隣人として共に暮らしていた(当時の人口は430万人、40%イスラム、30%セルビア、17%クロアチアだった)。しかし、ある日、誰かが「セルビア人こそ国の誇り、イスラム教徒は邪教徒だ」と叫び始めると、隣人同士が殺し合いを始める。1992年に始まった内戦により、セルビア人による民族浄化の虐殺事件が頻発し、死者20万人を超え、200万人が難民となった。まさに肉の思いは罪を導き、罪は人を死に至らせる。
3.霊の導きに従って歩む
・「イエス・キリストを死者の中から復活させた方の霊、神の霊があなたがたの内に居られるなら、つまり信仰があるならば、その霊により、たとえ肉体が滅んでも、神は生かしてくださる」とパウロは語る。
-ロ-マ8:11「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるであろう。」
・私たちは、もはや肉の奴隷ではない。だから霊にふさわしく生きる。それは貪りをやめ、神の被造物としての本来の姿にしていただくことだ。
-ロ-マ8:12-14「それで兄弟たち、私たちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を断つならば、あなたがたは、生きます。神は霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」
・私たちは、人を奴隷として恐怖に陥れる悪霊ではなく、愛と平和の神の霊を受けた。この霊に向かって、私たちは尊敬と親愛をもって、「父よ」と祈る。私たちが「父よ」と祈るのは、私たちが神の子とされたからである。
-ロ-マ8:15―16「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって私たちは、『アッパ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、私たちが神の子供であることを、私たちの霊と一諸になって証ししてくださいます。」
・私たちが神の子供であるとしたら、相続人でもある。それはイエス・キリストと共同の相続人でもある。なぜなら、キリストと共に苦しむことにより、苦難と共に栄光をも分かち受けるからだ。
-ロ-マ8:17「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」
3.ローマ8章の黙想
・パウロは「あなた方は罪の奴隷であったが、今は神の子とされた」と語る。奴隷は主人のために働き、その価値は働きによって計られる。ナチス時代のドイツでは、心身障害者は「生きるに値しない生命」として、安楽死を強要された。この状況は現代日本にもある。仕事の効率の悪い人は会社からリストラの対象として捨てられる。体力の落ちたスポーツ選手は引退を迫られる。競争社会においては、人は人格ではなく、能力や価値で評価され、価値の低下した者は捨てられる。しかし「あなた方はこの奴隷の境遇から救われた」とパウロは語る。奴隷であった私たちを、神は「子」としてくださった。子の存在価値は、「子であるという存在そのもの」にある。働けなくなっても、役に立たなくなっても、子であるゆえに、親はその子を受け入れる。私たちが子にされたということは、働きや行為によってではなく、「存在によって尊ばれ、受け入れられる」ことだ。これがパウロの語る福音なのである。
・福音によって新しく生きる、「新生する」とは、「霊に従って歩む」ことだ。その霊は人の内にある霊ではなく、人の外から、神によって与えられる。9節「神の霊があなたがたの内に宿っている限りあなたがたは、肉ではなく、霊の支配下にいる」、この『宿る』という言葉は、「外から来て住む」という意味があり、神の霊、聖霊が外から来て、人の内に宿り続けることを示す。人間が自分の努力ではなく、内に宿った聖霊の支配下で生きるようになることこそ、新生なのである。
・ルカ16:8「不正な管理人の譬え」は面白い譬えだ。「ある管理人が主人の金をごまかし、不正が露見しようとした時に、主人に負債のある者たちを呼び、その負債を免除することによって人々に恩を売り、自分が免職になった時に助けてもらおうとする」。人間の常識ではこの管理人は不正をしている。しかし、イエスはこの男をほめられた。管理人は主人から解雇されそうになった時、これからのことを真剣に考え、残された可能性を十分に活用して何とか生き残ろうとした。世の子らのこの熱心さこそ、光の子らは学ぶべきだ。
・人はそれぞれ能力が異なり、多くの賜物を与えられた人は多くのお金を稼ぎ、そうでない人は少しのお金しかもらえない。もし多くのお金を稼いだ人が「このお金は私が自分の能力によって得たものであり、どう使おうと私の自由だ」と思う時、その人は思い違いを知らされる。「あなたに高い能力を与えたのは神だ。もし、あなたが、この能力は私が獲得したものだと言い張るならば、神はあなたの健康を打ってあなたに病を与え、あなたは明日から働けなくなり、あなたはこの管理人と同じく失業する。あなたは私からの賜物を預かっている管理人なのだ。その賜物を自分の物と思い込む時に、あなたはこの不正な管理人と同じ事をしているのだ」とイエスは言われている。「管理人は自分が不正をしていることを認識していた。あなたは自分が不正をしていることを認識していない。とすれば、この管理人の方がまだ良いではないか」。