江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2024年6月26日祈祷会(ロ-マの信徒への手紙7:13-25、私の中に住む罪)

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1.私の中に住む罪

 

・パウロは7章前半で「律法を知らなかった時は、罪に対して何の意識もなく生きていた。しかし律法を知った今は、自分のうちにある罪を意識するようになり、自分が死ぬしかないことを知った」と語る。

-ロ-マ7:9-11「私は、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場した時、罪が生き返って、私は死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。罪は掟によって機会を得、私を欺き、そして、掟によって私を殺してしまったのです。」

・「命をもたらすはずの律法が、なぜ死を招くことになるのか」、パウロは「善なるものに隠れていた罪が、掟によってその正体を現した」と語る。

―ローマ7:13「それでは、善いものが私にとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通して私に死をもたらしたのです。このようにして、罪は邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。」

・死をもたらすのは罪である。罪は律法を通して明らかになり、私に死をもたらした。

―ローマ7:14-15「私たちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、私は肉の人であり、罪に売り渡されています。私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」

・私たちは肉体をもって生きている。肉が求めるのは生存本能に基づく欲求だ。食べる物がなく、このままでは死ぬしかない状況下で、肉は「他人のパンを奪っても食べよ」と求め、「貪るな」という霊の欲求は本能の前に死ぬ。「殺すな」という律法を知る者は、戦場で自分を殺そうとする敵と遭遇した時、彼を殺して苦悶する。敵を殺さない限り肉は生存しえないからだ。愛もそうだ。私たちが「誰かを愛する」とはその人を貪ること、その人から見返りを求めることだ。しかし、「愛するとはその人のために死ぬことだ」という律法を与えられた時、私たちは人を愛せないことを知る。

・この真実は律法なしにはわからなかった。パウロは「私は、自分のしていることを肯定できない」と自己の真実の姿に気づき、愕然とした。

-ローマ7:16-18「もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めていることになります。そして、そういうことを行っているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。

私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。」

・善をなそうという意志があっても、肉体は人間の欲望に負けてしまう。

-ローマ7:19-21「私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、私が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。」

・「善をなしたいと願っても善を行えず、願ってもいない悪を行っている」。そうさせているのは、私の肉に巣食う罪だ。罪が私を動かしている」とパウロは嘆く。

-ローマ7:22-24「『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるのでしょうか。」

・しかし「キリストがその罪の縄目にいた自分を救って下さった」とパウロは感謝する。

-ローマ7:25「私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、私自身は心では神の律法に仕えていますが、内では罪の法則に仕えているのです。」

 

2.信仰によって気付かされた惨めさ

 

・パウロは「私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょう」(7:24)と叫んだ。パウロ自身が自らを本当に惨めな人間と感じている。彼はこの惨めさを、信仰をもつ前には気付かなかったと語る。

-ローマ7:13b「罪がその正体を現す前に、善いものを通して私に死をもたらしたのです。」

・パウロは「内なる人としては神の律法を喜んでいるが、私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、私を五体の内にある罪の法則のとりこにしている」(ローマ7:21-24)と語る。この文章を日本語聖書で読むと、難解だが、英訳聖書では「律法も法則もすべてLaw」と訳し、わかりやすい。

-ローマ7:21-24(英文)「My inner being delights in the law of God. But I see a different law at work in my body-a law that fights against the law which my mind approves of. It makes me a prisoner to the law of sin which is at work in my body. What an unhappy man I am! Who will rescue me from this body that is taking me to death?」

・ここには三つの法が描かれている。一つめは神がこうせよと命じている「神の律法」である(the law of God)。二つめはそれを喜んで受け、それを実行したいと願う「心の律法」である(my inner being)。そして三つめは「肉の律法」である(my body-a law)。この肉の欲望(人間の本能)で動く罪こそが人を苦しめている。

 

3.「内なる人」と「外なる人」

 

・パウロは、7:25後半で「私自身は心では神の法則仕えていますが、肉では罪の法則に仕えている」と心と肉の分裂を語っている。また22-23節では、「内なる人」と五体の分裂を語る。信仰者は心と肉の矛盾と葛藤を抱えている。信仰者として神と共に生きていても、一方では肉の人として、様々な悩み、苦しみ、罪の法則の中で生きている。しかしパウロは絶望しなかった。

-第二コリント4:16「だから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの『外なる人』は衰えていくとしても、私たちの『内なる人』は日々新たにされます。」

・パウロの律法理解は彼自身の体験から導き出されている。パウロはファリサイ派に属し、律法に熱心だった。その律法への熱心が、律法を軽視するキリスト教徒の迫害に走らせ、キリスト教徒を捕縛するためにダマスコに向かう途中で、パウロは突然の回心を経験する。戒めの一点一画までも守ろうとした時、彼が見出したのは、「律法を守ることの出来ない自分」、「神の前に罪を指摘される自分」だった。キリストを信じて平和を見出す前のパウロは、「神の怒り」の前に恐れおののいていた。罪にとらえられているという意識、その結果神の怒りの下にあることの恐れが、パウロを苦しめた。しかし、復活のイエスとの出会いで、パウロの思いは一撃の下に葬り去られた。パウロを待っていたのはキリストの赦しだった。彼はキリストの迫害者からキリストの伝道者に変えられていく。この体験がローマ7章の背景にある。

・律法は人を救わない。何故なら人は律法を守ることが出来ないからだ。「殺すな」と言われても、私たちは怒りに駆られて人を呪い、呪いの先には殺人がある。人間は戦争をやめることができない、それは「殺すな」という命令を守ることの出来ないことを意味する。「姦淫するな」と言われても私たちは姦淫を犯し続けている。パウロはローマ7章の議論をガラテヤ書でさらに深めていく。

-ガラテヤ3:10-12「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。『律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている』と書いてあるからです。律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。律法は、信仰をよりどころとしていません。『律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる』のです」。

・では律法は何のために与えられたのか。本来の律法は人々に対する祝福として与えられた。奴隷として働かされたエジプトでは休息の日はなかった。疲れた身体を休めるように週に一度の安息日が出エジプトの民に与えられた。しかし祝福である安息日がやがて、安息日を守らない者は罰すると言う規定に変わっていく時に人を束縛するものになって行く。祝福を呪いに変えてしまうのは人間だ(ルカ14:1-6)。

・パウロがガラテヤ書で力説するのも、意味の変えられた律法の虚しさである。

-ガラテヤ3:23-25「信仰が現れる前には、私たちは律法の下で監視され、信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、私たちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。私たちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、私たちはこのような養育係の下にはいません」。

・生まれながらの人は自分の限界を知らず、自分の力で何でも出来ると思う故に、その人に裁き(砕き)が与えられる。ある人には、失業や事業の失敗という形で、別の人には病気や近親者の死という形で、あるいは夫婦や親子の不和が与えられる人もある。そのような限界状況、不条理の中に置かれて、人は初めて自分の限界を知り、自分を超えた者の名を呼び、呼ぶゆえに神に出会い、平安を与えられる。他方、私たちがこの苦しみや怒りを他者にぶつけた時、「むしゃくしゃしていた、人を殺したかった。誰でもよかった」と言う行為にさえなる。この怒りを人ではなく神に向けるべきだとパウロは教える。「神がこの不条理を与えられた、何故私をこんなに苦しめるのか」と怒りをぶつけた時に、初めて人は愛の神に出会う。

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