江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2024年4月24日祈祷会(ロ-マの信徒への手紙3:1-20、正しい者は一人もいない)

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1.ユダヤ人の優れた点は何か

 

・パウロはいつの日か、世界の中心、帝国の首都ローマに行って伝道したいと願い、今、未知のローマの教会に手紙を書いている。通常であれば挨拶と自己紹介の手紙になるはずだったが、ローマ教会には問題があり、そのため、パウロは詳細な救済論を書くに至る。ローマ教会はユダヤ人教会として始まったが、次第に異邦人も加入し、民族混合の共同体になっていた。その教会内でユダヤ人信徒と異邦人信徒の間に深刻な対立が生まれ、コリントにいるパウロにも知らせが届いていた。キリストを主と信じる信仰者の間に、なぜ対立や争いが生じるのか、パウロはその根源に、「人間の罪」を見る。

・1919年カール・バルトが伝統的な神学に疑問を感じ、詳細な「ローマ書注解」を書いたのも、第一次世界大戦で、同じキリストを主と信じるドイツ人とイギリス人が互いを殺し合う姿を見て、罪の問題を考えなければ人間の救いはないと感じたからだ。ローマ書の主題は「人間の罪と、罪からの救い」であり、3章の前半は人間の罪の問題を、後半は罪からの救いを描く。

・第三章の主題は「信仰による義」である。パウロは第一章で「異邦人の神に対する不敬虔と不義に対する神の怒り」を指摘した。第二章においては、「異邦人に対する神の怒りを他人事のようにしか考えないユダヤ人の慢心と、不義」を指摘した。第三章で、パウロは、「ユダヤ人の罪」をさらに深く論じ始める。

-ローマ3:1-2「では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。それはあらゆる面から指摘できます。まず、彼らは神の言葉を委ねられたのです。」

・ユダヤ人は神の言葉を委ねられた。「しかし、彼らはその責任を果たしていない」とパウロは語る。

-ローマ3:3-4「それは一体どういうことか。彼らの内に不誠実な者がいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。『あなたは言葉を述べる時、正しいとされ、裁きを受ける時、勝利を得られる。』と書いてあるとおりです。」

・パウロは「ユダヤ人の罪を神はお怒りになっている」と語る。

-ローマ3:5-6「しかし、私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。」

・パウロはかつて、自分が「神の言葉を委ねられたユダヤ人教師でありながら、神の教えを正しく受け止められず、神が救い主イエスを世に送られたことが信じず、キリスト者を迫害していた」ことを認める。しかしそのことによって逆に神の真実が示され、パウロはかつて迫害していたキリストの宣教者になった。

-ローマ3:7-8「またもし、私の偽りによって神の真実がいっそう明らかにされた、神の栄光となるのであれば、なぜ、私はなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。それに、もしそうであれば、『善が生じるために悪をしょう』とも言えるのではないでしょうか。私たちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。」

・ユダヤ人には神の言葉を委ねられているという点で他の民族に勝っているが、その戒めを行っていないという点では異邦人と何ら変わるところはない。

-ローマ3:9-11「では、どうなのか。私たち(ユダヤ人)には優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。『正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない』」。

・ここに引用されているのは詩編14編だ。人間の目から見れば、善人と悪人の区別はあるが、それは相対的な区別に過ぎず、「神の目から見ればすべての人は罪びと」である。

 

2.正しい者は一人もいない

 

・パウロは人間の罪の有り様を表示する。「あらゆる人は罪びとである」という認識がキリスト教の基本教理だ。それを示すのが、3:12から始まる告発状だ。

-ローマ3:12-18「善を行う者はいない。ただの一人もいない。彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない」。

・この部分は詩編5編、140編、10編、イザヤ59章等からの自由引用である。この「彼ら」を「私たち」と言い換えれば、それは私たちの姿となる。

-ローマ3:12-18「(私たちの)のどは開いた墓のようであり、(私たちは)舌で人を欺き、(私たちの)唇には蝮の毒がある。(私たちの)口は呪いと苦味で満ち、(私たちの)足は血を流すのに速く、(私たちの)道には破壊と悲惨がある。(私たちは)平和の道を知らない。(私たちの)目には神への畏れがない」。

・多くの人は、「自分はここまでひどくない」と思うかもしれない。しかしこれが私たちの真実の姿ではないか。人間の歴史は戦争の歴史であり、今でも殺し合いをやめることはできない。神は生命を継承するために人を男と女に造られたが、人間はこの性を快楽の道具として、不倫や同性愛を繰り返してきた。この世は罪と不正に満ちている。

 

3.律法が与えられている意味は何か

 

・パウロは「人は神の戒めを守ることが出来ない罪人」だと指摘し、「それを知るために戒め(律法)が与えられている」と語る。

-ローマ3:19「私たちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。」

・神は私たちに律法を与えられた。それは「神を愛し、隣人を自分のように愛する」(マルコ12:33)ためだ。しかし、私たちは本気で神を愛せないし、人を愛せない存在だ。それを知るために律法が与えられた。律法によって、私たちは罪とは何かを知る。

-ローマ3:20「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」

・「あなたがたローマ教会の人々が、異邦人もユダヤ人も共に同じ神を礼拝しながら、陰ではお互いを非難しあっているとすれば、どこに善があるのか、どこに義があるのか、どこにもないではないか」とパウロは語る。ヤコブが指摘するように、人は「舌で父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪う」(ヤコブ3:8-9)存在なのである。モーセの律法はユダヤ人に善悪の何であるかを教え、異邦人の道徳は彼らに善悪の区別を教える。人は「律法や道徳があるのは、それを守って立派な人間になるためである」と考える。しかしそこに大きな間違いがある。

・人は外面的、形式的に律法を守ることはできても、それらを内面的に守ることなどできないからである。イエスの提示された反対命題(マタイ5:43-44「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」)はそれを示す。私たちは「敵を愛する」ことは出来ない。人間が戦争を止められないのはその証拠だ。病人は自分の病気を知ることにより、医薬の必要を感じ、回復への第一歩を踏み出す。同じように、人は罪を自覚することによって、正しさを慕い、救いを求めるようになる。人は自分の力では律法を守りえないことがわかり、自分自身に絶望することによって、自分以上のものに眼を向ける。このようにして、「自我から神へ、道徳から信仰へと転換させるところに律法の意味がある」、これはパウロが自己の苦しみを通して知った真理であった。

・宗教改革者ルターも同じ体験をしている。彼は、若い時には、厳格な修道院生活を送り、毎日を修行の中に過ごしていた。しかし、どんなに修行しても、平安は与えられず、彼は激しい罪意識を抱く。彼にとって神は、怒りに満ちた、裁きの神だった。しかし、ある日、ローマ書の学びを通して、彼は「人間は苦行や努力による善行によってではなく、ただ信仰によって救われる。人間を義とするのは神の恵みである」という理解に達し、ようやく平安を得ることができた。パウロと同じように、律法や行いを通して救いを求めた時、神は怒りの神として立ちふさがったが、すべてを放棄して神の名を呼び求めた時、世を救おうとされる恵みの神に出会う。

・「人間がどのように努力しても、罪から救われることは出来ない。そういう窮地に陥っている人間に神の方から救いの手が伸ばされた」、それがキリストの十字架死だとパウロは語る。あなたがたローマ教会の人々が、異邦人もユダヤ人も共に同じ神を礼拝しながら、陰ではお互いを非難しあっているとすれば、どこに善があるのか、どこに義があるのか、どこにもないではないかとパウロは語る。

・パウロは語る「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(3:23-24)。キリスト・イエスによる贖い、十字架死により私たちの罪は赦された。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です」(第一コリント1:18)、神の子が地上に来た、御子の十字架死を通して罪が贖われた、この世の知恵では愚かな言葉だ。しかし復活のキリストに出会った者はこれが真理であることを知る。

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