江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2024年6月19日祈祷会(ローマの信徒への手紙7:1-12、律法からの解放)

投稿日:

 

 

1.律法は「罪とは何か」を私たちに知らせる

 

・6章においてパウロは、「罪の支配から我々が解放される」ためには、「罪自体の拘束力が失われる」ことによってではなく、「私たち自身が罪に対して死ぬことしかない」と明らかにした。

-ローマ6:6-7「私たちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。」

・私たちは自分の力で罪を克服することはできない。律法は私たちに道徳的行為=罪への抵抗と克服を命じるが、私たちは罪を克服することが出来ない。私たちは進退窮まり、罪の縄目にがんじがらめにされる。だから「罪から解放される」ためには、「律法の支配」から解放されることが必要であり、そのためには「律法に死ぬしかない」。パウロは、夫婦の結婚生活を例にとって、律法と罪の関係を説明する。

-ロ-マ7:1-2「兄弟たち、私は律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。」

・夫が死ねば妻は結婚の結び目から解放される。同じく人も罪に死ねば律法から解き放たれる。

-ロ-マ7:3「従って、夫の生存中、他の男と一諸になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なのです。他の男と一諸になっても姦通の女とはなりません。」

・夫が死ねば妻は新しい生活をやり直すことが出来る。同じように、私たちも律法に対して死ぬことによって、新しい夫=キリストの恵みの下に入る。

-ロ-マ7:4「兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、私たちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。」

・当時のユダヤ教徒は、「律法は人を命に導き、神との契約の中に人を守る」と考えた。現代の私たちも、「法律は人が罪を犯さないように善導する」ものと考えている。ところがパウロは、それとは全く反対に、「命に導くはずの戒めがかえって人を死に導く」ことを自己の体験から知った。だから彼は「罪から解放される」ためには、まず「律法から解放される」ことが必要だと説く。「文字に従う古い生き方」(律法による救い)ではなく、「霊に従う新しい生き方」(福音による救い)を求める。

-ロ-マ7:5-6「私たちが肉に従って生きている間は、罪に誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。しかし今は、私たちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、霊に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」

 

  1. 律法に死に、霊に生きる

 

・では律法とは罪なのか、「そうではない」とパウロは断言する。

-ローマ7:7a「ではどういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。」

・律法は私たちに「善を善とし、悪を悪とする基準」を立てることを促す。つまり「何が罪であるか」を教える。律法が「貪りを悪だ」と教えたから、私は自分の内に「貪り」があることを知ったとパウロは語る。

-ローマ7:7b「しかし、律法によらなければ、私は罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が『貪るな』と言わなかったら、私は貪りを知らなかったでしょう」。

・律法がなければ、私たちは罪を知ることができなかった。

-ロ-マ7:8「ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類の貪りを私の内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。」

・律法は死んでいた罪を明らかにし、古い人を死に追い込む。私たちは、新しい命に生きるためには古い命に死ななければならない。

-ロ-マ7:9-10「私は、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場した時、罪が生き返って、私は死にました。そして、命をもたらすはずの掟が死に導くものであることが分かりました。」

・律法を知らなかった時は、罪に対して何の意識もなく生きていた。しかし律法を知った今は、自分のうちにある罪を意識するようになり、自分が死ぬしかないことを知った。

-ロ-マ7:11「罪は掟によって機会を得、私を欺き、そして、掟によって私を殺してしまったのです。」

・罪は戒めによって機会を得る。すなわち罪を意識することで罪は力を得る。「律法や戒めは罪なのか」、パウロは言う「そんなことはありえない」。なぜなら、律法も戒めも聖なるものであり、問題は人間の側にある。暗い部屋の中ではほこりは見えない。しかし日が差し込むことによって、ほこりが見えてくる。同じように、律法はその光によって、悪(ほこり)の存在を指し示す。

-ローマ7:12-13「こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。それでは、善いものが私にとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通して私に死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。」

・救われるためにはまず罪を認識し、惨めな自分に呻き、神を求めることが必要だ。だから神は私たちに、モーセを通して「律法を与えて下さった」のだとパウロは語る。

-ローマ7:14「私たちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、私は肉の人であり、罪に売り渡されています。」

 

3.パウロ自身の体験が7章の背景にある

 

・このパウロの律法理解は彼自身の体験から導き出されている。パウロはキリキヤ州タルソで生まれたユダヤ人で、ファリサイ派に属していた。裕福な家庭の出身で、エルサレムのラビ・ガマリエルのもとで律法を学び、律法学者として立った。律法への熱心がパウロに、律法を軽視するキリスト教徒の迫害に走らせ、キリスト教徒を捕縛するためにダマスコに向かう途中で、突然の回心を経験する。使徒言行録9章に次第が書いてあるが、何が起こったのかはわからない。わかることは、パウロが復活のキリストに会い、キリストの「迫害者から伝道者に変えられた」という事実だけだ。

・そのパウロがキリストに出会う前に、どのような状況に置かれていたかを記すのが、ローマ7章だと言われている。律法に熱心な者として戒めの一点一画までも守ろうとした時、彼が見出したのは、「律法を守ることの出来ない自分」、「神の前に罪を指摘される自分」だった。パウロは告白する。

-ローマ7:22-23「内なる人としては神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります」。

・私たちは肉体をもって生きている。肉が求めるのは生存本能に基づく欲求だ。食べる物がなく、このままでは死ぬしかない状況下で、肉は「他人のパンを奪っても食べよ」と求め、「貪るな」という霊の欲求は本能の前に死ぬ。「殺すな」という律法を知る者は、戦場で自分を殺そうとする敵と遭遇した時、彼を殺して苦悶する。敵を殺さない限り肉は生存しえないからだ。愛もそうだ。私たちが「誰かを愛する」とはその人を貪ること、その人から見返りを求めることだ。しかし、「愛するとはその人のために死ぬことだ」という律法を与えられた時、私たちは人を愛せないことを知る。

・本来の律法は人々に対する祝福として与えられた。奴隷として働かされたエジプトでは休息の日はなかった。疲れた身体を休めるように週に一度の安息日が出エジプトの民に与えられた。しかし祝福である安息日がやがて、安息日を守らない者は罰すると言う規定に変わっていく。イエスは祝福を呪いに変えてしまった律法学者の罪を指摘する(ルカ14:5「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」)。パウロが力説するのは、意味の変えられた律法の虚しさである。

-ガラテヤ3:23-25「信仰が現れる前には、私たちは律法の下で監視され、信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、私たちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。私たちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、私たちはこのような養育係の下にはいません」。

・イエスは律法を否定するためではなく、完成するために来られた。イエスは律法を本来のもの(神を愛し、人を愛するための教え)に戻すために戦われたのである。

-マタイ5:17-18「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」

-

Copyright© 日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会 , 2024 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5.