1.キリストにある選びを喜ぶ
・エペソ書は「パウロの名」によって書かれているが、用語と文体、思想内容から、パウロ自身の手になるものではないとされる。内容的にはコロサイ書と多くの共通点を持っており、エペソ書の用語の四分の一がコロサイ書にある。成立時期は、パウロ没後(六十年代に殉教)ある程度の期間が経っていると見られ、七十年代とか八十年代が考えられる。
-エペソ1:1-2「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たちへ。私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」。
・当時の教会は、周囲の異教世界からの圧迫と誘惑の中で、集会内にキリストの福音から逸脱する、異なった教え(グノーシス)が入り込み、異教的環境に呑み込まれてしまう危険が感じられるようになっていた。そのため、パウロの働きの後を受け継ぐ一人として、この地域のキリスト者に責任を感じている牧会者である著者が、キリストの民の奥義を徹底させ、異教社会とは異なる歩み方を励まし、危機を克服しようとして筆をとったものと考えられている(市川喜一著作集から)。同時代と想われるヨハネ黙示録の記録が当時の状況を想起させる。
-ヨハネ黙示録2:1-5「エフェソにある教会の天使にこう書き送れ・・・あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。もし悔い改めなければ、私はあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう」。
・パウロが書き残した13の書簡はさまざまに分類されているが、その分類のひとつが「第一パウロ」と「第二パウロ」である。「第二パウロ」とは、「パウロが書いたと言われているが、パウロが著者であることに疑問が残る」6つの書簡(エフェソ、コロサイ、テサロニケ二、テモテ一・二、テトス)の総称を指す。これに対して「パウロが著者であることに疑問がない」と言われる7書簡(ローマ、コリント一・二、ガラテヤ、フィリピ、テサロニケ一、フィレモン)を「パウロ真正書簡」と呼ぶ。留意すべきは、「第二パウロ」書簡群がたとえパウロが書いたものではないとしても、キリスト者にとって聖なる書物であることに変わりはないことだ。私たちはエペソ書をパウロの弟子が書いたものとの前提で読んでいく。
・牧会者は、エペソにいる兄弟たちを「聖なる者たち=聖徒」と呼ぶ。それはエペソの信徒たちが霊的に優れているとか、人格や行いが高潔であるとか言う意味ではない。神によって選び分かたれ、聖別された故に、聖徒と呼ばれる。私たちもキリストの名によってバプテスマを受けた時、聖なる者、神から選び分かたれた者にされた。私たちは「聖別されている存在」なのだ。その私たちがこの地上でどのように生きるべきかを牧会者は書き送る。
・エペソ書は壮大な宇宙的教会論を描く。牧会者は「天地創造の前から、私たちが生れる前から、私たちは神に選び出され、子とさせられた」と語る。世の多くの人がキリストを信じることが出来ない時、私たちが信じる者とされた。これは、神の選びが私たちに与えられた出来事なのだと語られる。
-エペソ1:3-5「私たちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、私たちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たして下さいました。天地創造の前に、神は私たちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」。
・人間の不幸は神から離れた時に起こる。神から離れた時、私たちは自己中心的に生きる。その時、他者が持っているものを妬み、自分が持っているものは離そうとしない。欲望が妬みを招き、妬みが争いを招き、争いが人を不幸にする。私たちは、かつて霊的には死んでいた。この私たちのために、神はキリストを立て、和解の道を開いて下さった。罪が十字架に葬り去られ、私たちは神と和解した。
-エペソ1:6-7「神がその愛する御子によって与えて下さった輝かしい恵みを、私たちが称えるためです。私たちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです」。
・何故、神は私たちを選ばれたのか、それは私たちをご自身の器として用い、私たちを通して、この地上の人々全てを救おうとされるためだ。そのために、私たちがまず起こされた。
-エペソ1:8-10「神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画を私たちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです」。
・私たちは自分たちの救いだけでなく、他者の救いにも責任を持つ者、神の業を共に担う者とされた。私たちに与えられている聖霊はその保証だ。私たちの救いは、既に手付金が払われて保証されている。
-エペソ1:13-14「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、私たちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、私たちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです」。
2.牧会者の祈り
・牧会者の最大の願いは、人々が父なる神と出会い、その愛を知り、新しく変えられて生き始めることだ。
-エペソ1:17-18「主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いて下さるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせて下さるように」。
・神の力がどのように大きいものか。それはキリストを死から復活させ、天に上げられた力である。
-エペソ1:20-21「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」。
・この力を神は教会に与えられた。教会こそ地上のキリストの体、やがて来る神の国の先触れなのだ。
-エペソ1:22-23「神はまた、全てのものをキリストの足もとに従わせ、キリストを全てのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、全てにおいて全てを満たしている方の満ちておられる場です」。
3.エペソ1章の黙想
・神を知る時に人は始めて人となりうる。神を知らない人は恐れと孤独から怪物となってしまう。カインの末裔レメクの言葉は現代人の不安を言い表している。恐怖がレメクを攻撃的にしている。
-創世記4:23-24「アダとツィラよ、レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。私は傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す。カインのための復讐が七倍ならレメクのためには七十七倍」。
・アメリカによるアフガニスタンやイラクへの侵略は、自分たちがイスラムのテロリストに脅かされているとの恐怖からであった。イスラエルのガザに対する過剰防衛も国が滅びるとの過剰反応であった。共に本気で神の臨在を信じなかった。
-2024年9月29日説教から「2001年9月11日にテロリストによってハイジャックされた飛行機が二棟の高層ビルに突入し、3000人が死んだ時、アメリカの指導者たちは、自分たちは悪者に囲まれており、今自分たちの力で自分たちを守らなければ、自分たちは滅んでしまうと恐れました。ですから、テロリストたちの本拠地と思われていたアフガニスタンを攻撃し、その軍事的支配権を握りました。しかし、テロリストたちはイラクにもいるかも知れない。そしてイラクにも侵攻しました。自らの身を危険から守ろうとするのは当然です。しかし、自分を絶対安全の状況にしたいと思う時、それは神の守りを捨て去る行為になります。神の守りがない時、人は恐怖から過剰に攻撃的になり、相手も反撃します。アフガニスタンやイラクの情勢が私たちに教えるのは、平和は攻撃や恫喝からは来ないということです。今イスラエルがガザ紛争で陥っているのも同じ恐怖です。自分たちの国がなくなるかもしれないとの恐怖の中で、イスラエルは過剰防衛の残虐行為を続けています。
・この社会は、「世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、不従順な者たちに今も働く霊」(エペソ2:2)の支配下にある。だから、私たちは「信仰を盾とし、救いを兜としてかぶり、御言葉と言う霊の剣を持って」(同6:16)戦う。その戦いは困難に満ちている。しかしイエスは既に勝利されている。キリストが十字架に架かって死なれた。私たちを天に買い戻すためだ。天では既に御国は存在している。その御国が地にもなるように祈る場が教会だ。