1.聖霊が降る
・使徒言行録は、受難のイエスが三日目に甦り、彼等に聖霊が与えられるまでエルサレムに留まるように指示されたと伝える(使徒1:4-5)。イエスの昇天後、残された弟子たちは、一同に集まり、聖霊を求めて祈り、その祈りに答えて、神の力、聖霊が与えられたとルカは記す。聖霊は五旬節に降り、人々の回心が起き、キリスト教会の出発点となる。その日を聖霊降臨日(ペンテコステ)として教会は記念する。
-使徒2:1-4「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」
・「激しい風が吹いてきた」、「炎のような舌が見えた」、見えない聖霊が風のように弟子たちに下り、その霊によって弟子たちに語る言葉が与えられた。ルカは、語ることの出来なかった弟子たちが、語るための舌(言葉)を与えられた。それがペンテコステの日に起こった出来事の意味の一つである。
-使徒2:5-8「さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうして、私たちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。』」
・奇跡の第二は、弟子たちが神の業を、人々にわかる言葉で伝えたことだ。おそらく弟子たちは、外国生まれのユダヤ人や異邦人にも理解できる当時の共通語ギリシャ語で語り始めたと思える。
-使徒2:9-11「『私たちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方に住む者もいる。また、ロ-マから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教に改宗した者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは』。人々は皆驚き、とまどい、『いったい、これはどういうことなのか』と互いに言った。しかし、『あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、あざける者もいた」。
・イエスも弟子たちもアラム語で語っていた。アラム語で語られた出来事が、ギリシャ語という当時の共通語で新約聖書として書き記されることを通して、福音が世界に伝えられていった。その出発点がペンテコステの日に起こった「異なる言葉」の奇跡だった。このギリシャ語を話すユダヤ人たちがやがて福音宣教の担い手になる。エルサレム教会にユダヤ教からの迫害が行われ(使徒8章)、その結果、ギリシャ語を話すユダヤ人たち(ヘレニスタイ)はエルサレムを追われ、サマリアやシリア、さらにはアジア地方にまで伝道を行い、その結果、福音が民族、国境を超えて広がっていく。ルカはその歴史を踏まえて、ペンテコステの出来事を書き記している。
・その後キリスト教がローマ帝国の公認宗教になると、聖書は帝国の言葉ラテン語に翻訳され、ラテン語聖書(ウルガタ)が権威を持つようになる。その壁を破ったのが、宗教改革である。イギリスではウィクリフが聖書を初めて英語に翻訳し、ドイツではルターによりドイツ語聖書が生まれ、それらがグーテンベルクの発明した印刷術によって、世界各地に伝えられていく。福音を伝達したのは各国語に翻訳された聖書の力だった。宗教改革はペンテコステの再来であった。
2.ペトロの説教
・人々の「彼らは酔っている」との非難に対し、ペテロは、「これはヨエルの証しした預言の出来事が起こったのだ」と語り始める。
-使徒2:14-16「すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ話し始めた。『ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。私の言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。』」
・ペトロはヨエル3:1-5を引用して、終わりの時に、神は全ての人に聖霊を注ぎ、若者も老人もすべての人が預言するようになり、主の名を呼び求める者は全て救われると証言する。
―使徒2:17-21「『神は言われる。終わりの時に、私の霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。私の僕やはしためにも、その時には私の霊を注ぐ。すると彼らは預言する。上では天に不思議な業を、下では地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。』」
・ペトロは、「イエスは復活された、彼は死に支配されたままではいない」と人々に証言する。
-使徒2:22-24「『イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた人です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしによって、そのことをあなたがたに証明なさいました・・・このイエスを神は、お定めになった計画により・・・あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者の手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。』」
・ペトロの説教には説得力があった。語る出来事を彼自身が経験していたからだ。イエスが捕らえられた時、ペトロはイエスを見捨てて逃げた。十字架でイエスが死なれた時、ペトロは自分たちも捕らえられるのではないかと恐れていた。そのペトロに復活のイエスが現れ、残された群れを委ねられた。そしてペトロは今、説教者として立たされている。まさにペトロ自身が一度死に、その絶望の底から復活した。イエスの十字架と復活の出来事はペテロ自身が経験した出来事だった。だから、彼の説教は力に満ちていた。
-使徒2:32-36「『神はこのイエスを復活させられたのです。私たちは皆、そのことの証人です。それでイエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです・・・だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。』」
・50日前、大祭司の屋敷で、夜の闇の中で女中にさえ語ることの出来なかったペテロが、今、群集を前に語り始めた。神の霊はちりに命の息吹を吹き込み、人間を創造した(創世記2:7)。今また、神の霊は臆病であった弟子に命を吹き入れ、大胆に語る賜物を持った新しい人間を創造した。
3.教会の誕生
・ペトロが語った内容は驚くべきものだった。ユダヤ人にとって十字架で殺された者は「神に呪われた者」(申命記21:22)であるのに、ペトロはその人を「メシア」と呼ぶ。彼の説教は、常識的には気が狂ったとしか思えないような説教だった。それをペトロは何のためらいもなく説き、民衆はその説教に心を動かされた。彼らはペトロに尋ねる「私たちはどうしたら良いですか」。ペトロは「悔改めてバプテスマを受けなさい」と勧め、多くの者がこの日にバプテスマを受け、ここに教会が形成された。
-使徒2:37-42「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、私たちはどうしたらよいのですか』と言った。『悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、私たちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。』ペトロはこのほかにもいろいろ話しして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」
・ペトロの説教により、終末=主の再臨の日が近いと信じた人々による信仰共同体が誕生した。
-使徒2:43-47「すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおの必要に応じて、皆がそれを分けあった。そして、毎日心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心を持って一緒に食事をし、神を賛美していたので民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」
・初代教会は毎日集まり、礼拝を捧げ、食卓を共にし、兄弟姉妹への執り成しを祈った。このような活動を通して、彼らは一つになって行った。現代の私たちは、週1日か2日しか、共に集まることが出来ない。それだけに、主日の礼拝と祈祷会、また家庭集会での交わりが大事である。共に集まって聖書を読み、相手のために祈ることこそ主にある交わりであり、この交わりなしには、信仰の成長はない。私たちの信仰は、自分一人が救われて「良し」とする信仰ではなく、「共に救われる」信仰だからだ。教会が健全かどうかの指標は、「新しい兄弟姉妹が常に加えられているかどうか」にあるのではないか。