1.使徒としてのパウロ
・コリント教会には「パウロは使徒ではない」と批判する者もいた。当時、使徒とは「生前のイエスに従って復活の証人になった十二使徒」を指し、彼らがエルサレム教会を本拠地に諸教会を指導していた。しかしパウロはアンティオキア教会の出身であり、エルサレム教会からの推薦書を持たない、「非正統派」だった。パウロは批判者に対して、「私は人ではなく、復活のキリストに直接召された」と反論する。
-第一コリント9:1-2「私は自由な者ではないか。使徒ではないか。私たちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主のために私が働いて得た成果ではないか。他の人たちにとって私は使徒でないにしても、少なくともあなたがたにとっては使徒なのです。あなたがたは主に結ばれており、私が使徒であることの生きた証拠だからです」。
・「使徒」の原語はギリシャ語「アポストロス」、「派遣された者」の意味である。パウロは異邦人伝道のためにキリストに選ばれ、召され、派遣された。ダマスコ途上での復活のキリストとの出会いと召命は、紛れもない使徒性の証しなのだと彼は語る。
-使徒9:1-6「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『私は、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。』」
・使徒職は人からではなく、神から与えられるものである。
-使徒9:15-16「すると、主は言われた。『行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らに私の名を伝えるために、私が選んだ器である。私の名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、私は彼に示そう。』」
・この体験がパウロの使徒職への証しであり、自負であった。
-ローマ1:1-5「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから・・・私たちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。」
・パウロは「私は少なくともあなたがたにとっては、使徒ではないか」と主張する。パウロはコリントに福音を伝え、コリントに教会を立てた。パウロは「私の推薦状はあなたがた自身の信仰だ」とまで言う。
-第二コリント3:2-3「私たちの推薦状は、あなたがた自身です・・・あなたがたは、キリストが私たちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」。
・パウロは自給伝道をしていたが、コリントのある者たちは、「パウロはエルサレム教会への献金をくすねているから私たちからの支援を求めないのだ」と批判していた。彼らに対しパウロは「福音の宣教者は、生活のためのお金を宣教によって得ることが許されている」と反論する。
-第一コリント9:3-6「私を批判する人たちには、こう弁明します。私たちには、食べたり、飲んだりする権利が全くないのですか。私たちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。あるいは、私とバルナバだけには、生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか。」
・パウロ自身は当然許されている宣教者の報酬をいただくことをしなかった。
-第一コリント9:11-12「私たちがあなたがたに霊的なものを蒔いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。他の人たちが、あなたがたに対するこの権利を持っているとすれば、私たちはなおさらそうではありませんか。しかし、私たちはこの権利を用いませんでした。かえってキリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます。」
・パウロは天幕作りをして生活費を稼ぎ、自給伝道者として働いた。そうせずにはおられなかったからだ。
-第一コリント9:13-17「神殿で働く人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかります。同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。しかし、私はこの権利を何一つ利用したことはありません。私が福音を告げ知らせても、それは私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、私は不幸なのです。自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、委ねられている務めなのです」。
2.ただ福音のために
・一人でも多くの人をキリストのために獲得すること、それが私の報酬なのだとパウロは語る。
-第一コリント9:18「では、私の報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせる時にそれを無報酬で伝え、福音を伝える私が当然持っている権利を用いないということです。」
・そして彼は言う「私は福音のためなら何でもする」と。
-第一コリント9:19-23「私は、誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、私自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。また、私は神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、私はどんなことでもします。それは、私が福音に共にあずかる者となるためです」。
・パウロは「すべての人に仕える」と語る。それをより鮮明に伝えるパウロの言葉が残されている。
-フィリピ4:11-13「私は、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。私を強めてくださる方のお陰で、私にはすべてが可能です。」
・その目的のために、「私は競技者が節制するように節制に努める」とパウロは語る。当時のギリシャ・ローマ世界では競技が非常に盛んだった。オリンピックもギリシャから生まれている。
-第一コリント9:25-26「競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、私たちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。だから、私としては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです」。
3.宣教者の報酬をどう考えるか
・パウロは生涯結婚せず、各地を放浪し、天幕を作りながら伝道し、そして殉教の死を遂げた。彼は「自分の羊」を養うために命を捧げた。福音の宣教者が自己を養うことを考え始めたら、彼はその資格を失う。
-エゼキエル34:2-6「災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない」。
・現代の教会は宣教者に牧師給を支払い、彼と家族の生活を保証する。連盟牧師給支援規定では「50歳、妻、子2人、勤続20年」の平均的牧師の場合、牧師基本給+家族手当+夏期・冬期手当てを総計すると、年間支給額が6,727,680円となる。さらに教職者の社会保険料(健康保険・介護保険・厚生年金保険の1/2は教会負担)を合わせれば、7,405,714円となる。他方、バプテスト教会の平均経常献金は500万円~600万円台である。フルタイムの牧師招聘のためには、最低でも経常献金1,000万円の水準が必要となるが、これは連盟330教会の3割、100教会しかない。つまり平均的な教会はフルタイムの牧師を招聘できない現実がある。
・現代の宣教者にパウロのような生き方を求めることは非現実的である。ここにおいて「兼業牧師の招聘」が重要な課題となる。兼業牧師の招聘とは、「職業(独自収入)を持った牧師の招聘」である。具体的には「働きながら牧会を行う」、「何らかの副業を持つ」、「年金等の収入を持つ」、「家族が働いて生計を整える」等が可能な牧師の招聘である。パウロの自給伝道の在り方が改めて注目される。
-第二コリント11:7-9「あなたがたを高めるため、自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせたからといって、私は罪を犯したことになるでしょうか。私は他の諸教会からかすめ取るようにしてまでも、あなたがたに奉仕するための生活費を手に入れました。あなたがたのもとで生活に不自由した時、だれにも負担をかけませんでした。マケドニア州から来た兄弟たちが、私の必要を満たしてくれたからです。そして、私は何事においてもあなたがたに負担をかけないようにしてきたし、これからもそうするつもりです。」