1.コリント教会での不品行の問題
・コリント書は1~4章において、教会内の分派争いに関するパウロの勧告を取り上げる。5章以下では、教会内の不品行、あるいは不道徳な行為に対して、どう対応すべきかが主題になっている。教会は赦された罪人の集まりだ。人は罪が赦されても、世にある限り、世の罪から完全に自由になっているわけではない。教会の中にも罪が侵入した時、どうするかについて、5章以下は述べる。
・コリントは人口70万人の世界有数の大都市であり、歓楽の都、虚栄の市と呼ばれ、あらゆる性的な不倫が蔓延していた。その中に立てられた教会もその風潮を受け、道徳問題にルーズであった。そして教会員のある者は、義母と不義の関係を持って同棲している者もいた。
-第一コリント5:1「現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです」。
・「みだらな行い」、ギリシャ語=ポルネイア、英語pornographyの語源になった言葉で、性的不道徳を意味する。近親相姦はユダヤ法でもローマ法でも禁じられていた(レビ記18:8「父の妻を犯してはならない。父を辱めることだからである」)。コリント6章では「娼婦と交わることはキリストの体を汚す行為だ」とある。コリントのアフロディア神殿には、千人近くの巫女(神殿娼婦)がいて、巡礼者に性的な享楽を奉仕していた。教会の中に性的誘惑に負けて不品行に陥り、不倫や買春を行う人も出ていたのであろう。
-第一コリント6:15-16「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか」。
・コリント教会の人たちは、性的混乱を見て見ぬ振りをしていた。罪を深刻に受け止めない時、人は危険な状態に陥る。イエスは人々の罪にために死なれたと、パウロは無関心な教会の人たちを戒める。
-第一コリント5:2「それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか」。
・パウロは近親相姦を犯した人を教会の集まりから排除しなさいと命じる。サタンに引き渡す=教会から除名するということであろう。パウロは、教会は神の国の属し、この世はサタンの支配するところだと考えていた。教会から追放する、彼をその属するサタンの世界に送り返せとパウロは語る。それは、教会の秩序を保つと同時に、その者に悔い改めの機会を与えるためでもある。あくまでも主にある兄弟としての措置だ。
-第一コリント5:4-5「私たちの主イエスの名により、私たちの主イエスの力をもって、あなたがたと私の霊が集まり、このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。主の日に彼の霊が救われるためです」。
・不品行のパン種は、教会全体を腐らせる。わずかなパン種が全体を破壊するのだから、取り除きなさい。癌のある部位は切り取ってしまわなければいけない。
-第一コリント5:6-7「あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、私たちの過越の小羊として屠られたからです。」
2.この世の生と教会の生
・世の人は、不品行であり、強欲であり、偶像礼拝を行う。それはキリストを知らないからだ。しかし、パウロはその人たちと一切付き合うなとは言わない。
-第一コリント5:9-10「以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが、その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではありません。もしそうだとしたらあなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう」。
・世の人を裁くのは神に任せよ。しかし、教会内部ではそのような行為が放置されてはいけない。
-第一コリント5:11-12「私が書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです。外部の人々を裁くことは、私の務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか」。
・不品行とは人間を動物に貶める行為であり、自分の体を汚す行為だ。
-第一コリント6:18「みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです」。
・強欲は、他者を貪る、他者を汚す罪だ。キリストは仕えることを教え、貪ることを戒められた。
-マルコ10:44-45「いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
・様々な悪が世に満ちているが、その裁きは神に任せよ。教会外の人を裁くことはあなたの職務ではない。しかし、教会内においては、放置してはいけない。
-第一コリント5:13「外部の人々は神がお裁きになります。あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。」
3.教会と世の関りをどう考えるか
・野村喬は「福音と世界」2009年3月号に、「伝道する心」と題して書いた。「日本の社会は教会を問題にしていない。教会が何を主張し、どのような行為をしようと、社会に影響を与えることは出来ない。日本のクリスチャンは人口の1%、絶対的少数者だ。しかし少数者の割には、キリスト教に関する本は読まれ、音楽は聞かれている。それはミッションスクールの影響だろう。多くのミッションスクールがあり、教育分野でのキリスト教の影響は大きい」。
・「しかし、ミッションスクールで学ぶ学生のほとんどはクリスチャンにならない。礼拝出席を義務付ける学校もあるが、成功していない。学生にとってキリスト教は社会的教養であっても、自分の問題を切り開く力ではない。結婚式の半分以上はキリスト教式だが、司式者に求められるのは神学的訓練ではなく、セレモニーの進行役だ。結婚式の大半は説教の時間はなく、あっても数分だ。人々はキリスト教の形は欲しいが、中身はいらないといっている」。
・そのような社会に私たちはイエスの派遣命令を受けて宣教に出かける。イエスは12弟子を派遣された時に言われた。「私はあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」(マタイ10:16)。イエスは「私たちが派遣される場所には狼の群れがいる」と注意される。私たちの宣教の場である日本社会には、「福音に無関心」という狼がいる。どうすれば彼らに関心喚起ができるのだろうか。それは福音に促された生き方を通して証しを行うことだ。
・例えば、性に関して、キリスト者はどのように語るべきなのだろうか。性は人間の罪の中核にあり、誰も性を制御できない。コリントのアフロディテ神殿には神殿娼婦と呼ばれる遊女たちが千人もおり、彼女たちとの性的な交わりを通して神と合体するという信仰があった。しかし、これはコリントの人々が、自分たちの性欲を満たすために理由付けをしたにすぎない。また戦前の日本には遊郭があり、遊郭遊びは男の甲斐性と呼ばれていた。同じような正当化だ。しかし、不品行とは人間を動物以下に貶める行為であり、自分の体を汚す行為だ。パウロは6章で語る「みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです」(6:18)。
・今日では性の自由の下に、不倫に対する道徳的な抵抗感が少なくなったが、不倫は聖書の中で、最もしてはいけない行為とされている。不倫が何故いけないか、それは人を傷つけるからだ。不倫は当事者の満足のために、お互いの配偶者を傷つける行為だ。人は自己の幸福を他者の不幸の上に築いてはいけない、それは道徳の問題ではなく、信仰の問題である。「自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」、この言葉を知る時、不倫の不道徳性が明らかになる。
・「良い木は良い実を結ぶ、信仰は行為を導く」、そのことをパウロは「すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない」と語る。ヤコブは語る「もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(ヤコブ2:15-17)。信仰は行為を導く、行為による証しこそ、キリスト者の為すべきことだ。