1.祈る時には
・イエスの時代、祈りは教師が弟子たちに教えることで継承されていた。イエスも弟子たちから、ヨハネが弟子に教えたように、祈りを教えてほしいいと乞われた。
-ルカ11:1「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください』と言った。」
・主の祈りは、簡潔で要点をすべて含んでいる。まず神へ「父よ」と呼びかけ、「御名が崇められますように、御国が来ますように」と神の国が来ることを願う。
-ルカ11:2「そこでイエスは言われた。『祈る時には、こう言いなさい。「父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。」』
・イエスは「祈りは父を呼ぶことから始まる」と教えられた。結核を病み、若くして死んだ詩人・八木重吉は、病の床で、息を吐き、息を吸う度に、「御父上さま」と呼ぶ。呼吸が神を呼ぶ祈りとなる。
-八木重吉・神を呼ぼう「天にいます 御父上を 呼びて 御父上さま 御父上さま と唱えまつる 出ずる息に呼び 入りきたる息に 呼びたてまつる われは聖名を 呼ぶばかりの者にてあり もったいなし 御父上 整うるばかりに 力なく 業なきもの 淡々として 一条の道を見る」。
・「御名が崇められますように。御国が来ますように」、闇の中にある者は、光を求める。
-詩編130:6「私の魂は主を待ち望みます、見張りが朝を待つにもまして、見張りが朝を待つにもまして」。
・その日の糧を求めるのは、食べることのできない貧しさの中で生きているからだ。同時に祈りは「私たちの祈りだ」、私たちだけではなく、隣人も食べられる日が来ることを待望する。
-ルカ11:3「私たちに必要な糧を毎日与えて下さい。」
・人は誘惑に負けて罪を犯す。だから「罪の誘惑に負けないように」祈る。
-ルカ11:4「私たちの罪を赦して下さい、私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。私たちを誘惑に遭わせないで下さい。」』」
・私たちの人生は誘惑の連続だ。苦難があれば人は神を疑い、幸福な時は神を忘れる。「誘惑に負けて信仰を失うことがないように」、祈れと言われる。箴言30章は旧約における「主の祈り」だ。
-箴言30:7-9「二つのことをあなたに願います。私が死ぬまで、それを拒まないで下さい。むなしいもの、偽りの言葉を私から遠ざけて下さい。貧しくもせず、金持ちにもせず、私のために定められたパンで、私を養って下さい。飽き足りれば、裏切り、主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き、私の神の御名を汚しかねません」。
2.求めよ、そうすれば与えられる
・イエスは祈りとは「求め」であることを譬えで示される。
-ルカ11:5-7「また弟子たちに言われた。『あなたがたのうちのだれかに友だちがいて、真夜中にその人の所へ行き、次のように言ったとしよう。「友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友だちが私のところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。」すると、その人は家の中から答えるにちがいない。「面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちは私のそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。」』
・神に何かを願い祈る者はそこであきらめない。粘り強く求め続ける。
-ルカ11:8「しかし、言っておく。その人は友だちだからということでは起きて何か与えることはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。』」
・神の救いを得ようと志す者は、閉じられた門が開かれるまで、門を叩き続ける。門を叩き、道を探し、救いを求める者こそが、求道者なのである。
-ルカ11:9-10「『そこで私は言っておく。求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。』」
・願い求める者に答える神の答えを、イエスは人間の父親の温情にたとえて説明される。
-ルカ11:11-13「『あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良いものを与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えて下さる。』」
・譬えの主人公が置かれている状況は厳しい。友人が来たのにパンがない、彼は友人のパンを求めて、夜中に隣人を訪ねる。この友人とは放浪する伝道者であろう。当時は宿屋等の宿泊設備はなく、受け入れた人も明日自分の家族が食べるパンもない状況で受け入れている。「お前たちは、私が飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれた」(マタイ25:36-36)という状況の中で、必死に求めている。このような必死の求めを神が拒絶されることはあり得ない。「神に迷惑をかけてまで求めてよい、父なる神はそれを受け入れて下さる」という信仰がそこにある。
3.ベルゼブル論争
・イエスは悪霊につかれた人から悪霊を追い出された。そこにいた群衆は驚いた。しかしファリサイ人たちは「悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」とイエスを非難した。
-ルカ11:14-16「イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。しかし、中には、『あの男は』と言う者や、イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。」
・イエスは中傷する者に二つの明白な論理で対応された。一つは「内輪もめの愚かさ」の論理である。
―ルカ11:17-20「しかし、イエスは彼らの心を見抜いて言われた。『内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、私がベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、どうしてその国が成り立って行くだろうか。私がベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。しかし、私が神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちの所へ来ているのだ。』」
・ベルゼブル、ヘブル語バアル=主人、ゼブル=家、即ちバール・ゼブル(家の主人=この世の王)と呼ばれたカナン地方の偶像神の名である。イエスが病を癒されたことを、民衆は素直に神の業として驚嘆したが、パリサイ人はこれをサタンの業だと悪口を言った。それに対して、イエスは、「私が神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国は既にあなたたちのところに来ている」と言われた。目が見えず口の利けないこの人が癒されたことこそ、神の憐れみのしるしではないのか。
-ルカ11:21-23「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。私に味方しない者は私に敵対し、私と一緒に集めない者は散らしている。」
・当時、病気は悪霊の仕業だと考えられていたので、祈祷や呪文による治癒は悪霊祓いの結果であると見られていた。そのさい、治癒は一時的で、再び以前よりも悪い状態に陥るケースもしばしばあり、そのような場合は、追い出された悪霊が仲間の悪霊を引き連れて戻ってきたのだと説明されていた。
-ルカ11:24-26「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」
・人は原因のわからない病気や災いは悪霊のせいにする。今日でも精神の病気は悪霊に結び付けられやすい。精神の病でうつ病は理解できる。悲しみや苦しみがその人の許容量を超えた時、人はうつ状態になるからだ。しかし、精神分裂病(統合失調症)は理解が難しい。脳の機能障害と考えられ、薬である程度は抑制できるが完治は望めない。人々は彼らを精神病院に隔離する。何処の精神病院に行っても、10年、20年入院している人が大勢いる。「このような人たちは私たちの隣人だろうか」。イエスは私たちにそう問いかけておられる。
・精神の疾患は一時的には良くなることもある。しかし、やがて再発し、情況は前よりも悪くなる。雑草は抜いてもまた生えてくる。雑草が生えないようにするためには、雑草の生える余地がないように花を植える必要がある。そうすれば庭はきれいな花で満たされる。悪と戦う最善の方法は、積極的に善をすることだ。その善とは隣人を愛することだ。キリスト者の守るべき戒めは唯一つ、「互いに愛し合う」ことである。イエスは言われた「私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:12-13)。友とは誰か、私たちの助けを必要としている人であり、私たちの生き方が「自己の救いから友の救いへ」と成長して行った時、もはや私たちの中に悪霊が戻ってくる余地はなくなるのではないか。