1.突風を静めるイエス
・ガリラヤ湖は海抜マイナス180メートルにあり、周囲を山に囲まれ、山間の渓谷から吹き降ろす風が湖上の嵐になる。イエスと弟子たちを乗せた舟は湖上へ出て間もなく、この嵐に出遭った。イエスは眠っていたが、嵐を恐れた弟子たちはイエス起こし、助けを乞うた。
-ルカ8:22-24a「ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、『湖の向こう岸に渡ろう』と言われたので、船出した。渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった。弟子たちは近寄ってイエスを起こし、『先生、先生、おぼれそうです』と言った」。イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。」
・この物語はマルコ福音書が元になって、マタイとルカに引用されている。マルコはイエスがガリラヤ湖で嵐を静められたという伝承を元に記事を編集した。マルコ福音書が書かれた紀元70年ごろ、教会はローマ帝国内において邪教とされ、迫害され、教会の指導者だったペテロやパウロたちも殺されている。ローマ教会は、迫害の嵐の中で揺れ動き、信徒たちはキリストに訴える「あなたはペテロやパウロの死に対して何もしてくれませんでした。今度は私たちが捕らえられて殺されるかもしれません。私たちが死んでもかまわないのですか」。マルコは湖上の嵐の伝承の中に、「主よ、私たちを助けてください。私たちは滅ぼされそうです。起きて助けてください」という教会の人々の叫びを挿入しているのではないかと思われる。
-ルカ8:24b―25「イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。イエスは、『あなたがたの信仰はどこにあるのか』と言われた。弟子たちは恐れ驚いて、『いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか』と互いに言った。」
・イエスは弟子たちを叱られた(あなたがたの信仰はどこにあるのか)。私たちは、順調な時には、神が共にいてくださるという事実を、感謝をもって承認するが、危急存亡の時には慌てふためき、神がおられるという事実が何の意味もないように思える。信仰者も末期癌だと告知されれば慌てふためくし、愛する人を病気で奪われた人々は「何故」と訴える。仕事を失くした人は「主よ、これからどのように生きればよいのですか」と哀訴する。教会分裂が起こり、残された人は言う「主よ、この教会を壊そうとされるのですか」。私たちは救いを求めて叫ぶが、目に見える助けがすぐに来ない時、私たちの信仰は揺らぐ。この物語は、信仰が揺らいだ時には、イエスが起きられるまで、叫び続けよと教える。イエスは眠っておられるが、求めれば起きて下さり、「黙れ、静まれ」と嵐を静めて下さる。その後で、私たちは叱られるかもしれない。しかし、その叱りを通して、私たちは成長していく。
-マルコ4:38-40「イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、『先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか』と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。『なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。』」
・私たちの人生は、荒海を航海する舟のようだ。海の上を航海するから、常に不安定で、船板一枚の下には、底知れない闇がある。嵐が来れば、木の葉のように翻弄される。しかし、私たちの舟にはイエスが乗っておられる。眠っておられるかもしれないが、起こせば起きて下さり、嵐を静めて下さる。「風と波を叱り、静める力をお持ちの方が、私たちと共におられる」、その事を私たちは信じることが許されている、これが福音である。
・第二次世界大戦後の1948年、世界の教会はコペンハーゲンに集まって、世界教会協議会(World Council of Churches、WCC)を結成した。大戦でキリスト教徒同士がいがみ合い、殺し合いをしたことを悔い改め、新しい共同体を造っていくことで合意し、そのシンボルマークとして「十字架の帆柱をつけた嵐に揺れる舟」が選ばれた。これからも信仰が揺さぶられるような嵐があるかもしれないが、イエスのメッセージを聞き続けていこうとの決意がそこにあった。
2.悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやすイエス
・次のゲラサの悪霊追放物語もまた三福音書全てに記事がある。元々の物語はマルコによる。
-ルカ8:26-28「一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。『いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。』」
・物語のヒントは、男が語る「レギオン」という言葉の中にある。レギオンはローマの軍団(6000人隊)の呼び名で、当時のデカポリスはローマ帝国の管理下にあり、シリア州には四個の軍団(レギオン)が配置されていた。この人はローマ軍の残虐行為を経験して狂気に陥った可能性がある。
-ルカ8:29-31「イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。イエスが、『名は何というか』とお尋ねになると、『レギオン』と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。そして悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った」。
・悪霊は山で飼われていた豚の群れの中へ追放してほしいとイエスに懇願したので、豚の大群は湖に飛び込み溺死した。人々はイエスを恐れイエスに町から立ち去るよう願った。
-ルカ8:32-34「ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。この出来事を見た豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。」
・ドストエフスキ-はルカ8章の悪霊にヒントを得て、無神論革命思想を悪霊に見立て、1869年に実際に起こったネチャ-エフ事件を素材に小説『悪霊』を書いた。彼は小説の冒頭にルカ8:32-36の「豚がおぼれ死んだ」記事を掲げる
-ルカ8:35-37a「そこで、人々はその出来事を見ようとしてやって来た。彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て、恐ろしくなった。成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の救われた次第を人々に知らせた。そこで、ゲラサ地方の人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った。彼らはすっかり恐れに取りつかれていたのである。」
・悪霊につかれたゲラサの男は、現代では統合失調症(精神分裂)と呼ばれるだろう。この病気の発症率は120人に1人とかなり多く、妄想・幻覚・幻聴が生じ、現代医学でも治癒は難しい。日本で精神の病に苦しむ人々は100万人おり、その内30万人は入院しているが、入院期間は5年、10年、さらには20年と長い。治っても帰るところがないからだ。ゲラサの男は夜昼叫んで、体を傷つけていた。希望がないからである。同じ状況が今日にもあることを私たちは認識する必要がある。
-ルカ8:37b-39「そこで、イエスは舟に乗って帰ろうとされた。悪霊どもを追い出してもらった人が、『お供したい』としきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。『自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。』その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。」
・ゲラサの狂人は「主があなたに何をして下さったかを知らせなさい」(5:19)というイエスの命に従って伝道者となり、その実りとして教会が立てられたことを、マルコは報告している。ここに疎外状態にあった一人の人物の回復物語がある。私たちの周りにも、抑圧の中で外に出ることが出来ず、家に引きこもっている人がいる。安定した職業につけず、将来に希望を失っている人がいる。心身の病気のために礼拝に出ることが出来ない人がいる。その人たちに、私たちが「神は孤独な人に身を寄せる家を与え、捕われ人を導き出して清い所に住ませてくださる」との福音を伝え、その人と祈りを共にする時、そこに何かが生まれる。
・ゲラサの男は、イエスが関わりを持たれることで、人間社会に復帰した。フィレモン書のオネシモはパウロが関りを持つことによって救われて行った。コロサイのフィレモン家から逃走した奴隷オネシモは、パウロの執り成しにより、主人フィレモンにより解放され、パウロに従い、やがてはエペソの司教にまでなった。このオネシモが散逸していたパウロ書簡を集め、聖書に編纂したと言われている。関り合いを持つことによって、そこに奇跡が生まれた。
-フィレモン1:9-19「年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが。監禁中にもうけた私の子オネシモのことで、頼みがあるのです・・・私を仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモを私と思って迎え入れてください。彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それは私の借りにしておいてください。私パウロが自筆で書いています。私が自分で支払いましょう」。