江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2022年3月30日祈祷会(ルカ福音書4:1-16、荒野の試み)

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1.荒野の試み

 

・イエスがバプテスマを受けられた時、天から声があった「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」。自分がメシアであると自覚されたイエスは、何をすべきかを知るために、霊により荒野に導かれた。

-ルカ4:1-2「イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた」。

・荒野でささやく声がイエスを誘惑した。「メシアであればこの石をパンに変えて、人々を養ったらどうだ」。人が求めるものは経済的安定だ、それを与えればお前は王になれる。イエスはこれを拒否された。

-ルカ4:3-4「悪魔はイエスに言った『神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ』。イエスは、『人はパンだけで生きるものではないと書いてある』(申命記8:3)とお答えになった」。

・第二の誘惑は「王になってこの世を支配せよ」というものであった。民衆はローマからの解放を望んでいる、お前が指導してローマに反乱を起こし、この世に神の国を造れとのささやきである。

-ルカ4:5-8「悪魔は言った。『この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それは私に任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もし私を拝むなら、みんなあなたのものになる』。イエスはお答えになった『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよと書いてある』(申命記6:13)」

・第三の試みは「与えられた力を自分のために用いよ」への誘惑であった。イエスはこれを拒否された。

-ルカ4:9-12「『神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ・・・神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。また、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』。 イエスは『あなたの神である主を試してはならないと言われている』(申命記6:16)とお答えになった」。

 

2.荒野の試みと私たち

 

・貧しい人もパンを食べることのできる社会を作ろうという運動は、歴史上繰り返し現れて来た。共産主義者は社会の不正構造が人々の口からパンを奪っていると考え、権力を倒し、理想社会を作ろうとしたが、出来上がった社会は怪物のような全体主義国家だった。フランス革命も貧しい人々が立ちあがった運動だったが、結果は血で血を洗う権力闘争に終ってしまった。神の国はこの世にはない。「人はパンだけで生きるのではなく、神によって生かされていること」を知らない限り、人間同士は争い続け、平和は与えられない。

・人々がメシアに求めていたのは、ローマからの独立を勝ち取る指導者だった。イエスの時代、多くのメシア自称者が立ち、ローマに抵抗した。紀元66年熱心党がローマに対する武力蜂起を行い、イスラエル全土が熱狂的にこの運動に加わり、独立を目指すユダヤ戦争が始まった。戦争はローマに制圧され、紀元70年エルサレムは破壊され、国は滅びた。この戦争に、生まれたばかりの教会は参加せず、エルサレムを脱出した。「この世の支配権をあげよう」という悪魔の誘惑に従った人々は、国を滅ぼしてしまった。

・人々はイエスに繰り返し、しるしを求めた。十字架にかけられたイエスに対して人々は言う「神の子なら自分を救え。そして十字架から降りて来い」(ルカ23:35)。イエスは拒否され、十字架上で死なれた。その場を逃げた弟子たちは復活のイエスに出会うことにより従う者とされていく。人はしるしを見て変えられるのではなく、神が自分たちを愛され、そのために行為されたことを知る時に、変えられていく。現代の私たちもしるしを求める「私の病気を癒して下さい」、「私を苦しみから救って下さい」、「私を幸福にして下さい」。そして言う「そうすれば信じましょう」。その時、私たちは神と取引している。

・三つの誘惑には共通項がある。いずれも与えられた力を用いて、地上に神の国を作れとの誘いだ。「お前は石をパンに変える力を与えられた。民衆にパンを与えれば、彼らは喜んでおまえを王にする。お前はローマを倒す力を与えられた。ローマを倒してユダヤを独立国にしたら民衆は喜ぶ。お前は奇蹟を起こす力を与えられた。奇跡を起こせば、人々はおまえに従う」。「神の子であればその力を使え、十字架で苦しんでも何も生まれないではないか」との試みである。

・荒野の試みを通して、私たちが知るのは、人々の求めに応じることが出来ても、そこには何も生まれないという事実だ。パンは一時的な飢えを満たすかもしれないが、やがてまた空腹になる。私たちがホームレスの方々の支援活動を行い、カウンセリング活動をすることは意味があるが、教会の本質的な業ではない。教会はあくまでも、解放の言葉である福音を宣べ伝え、福音の光の中で人々に自分の罪を知らせ、その罪を赦して下さるキリストを指し示すことを本来の使命とする。病の癒しも同じであろう。癒されれば、人々は一時的には幸福になるが、やがて死ぬ。本当に必要なものは心の救い、平安だ。福音はどのような状況の中でも、平安をもたらす力を持っている。これを信じて、福音伝道にまい進することこそが教会の使命であろう。

・同時に教会はこの世的な繁栄を求めるべきでないことも知らされる。私たちの教会は30人ほどの小さな集まりだが、100人、200人の大教会を目指すことが大事だとは思わない。人数は少なくても、一人一人が福音を生活の中で生きる、そのような共同体を目指したい。

 

3.荒野の試練と大審問官

 

・ドストエフスキーの語る「カラマーゾフの兄弟・大審問官」は「荒野の試み」を背景にしている。大審問官は16世紀末のスペインに現れたイエスを完全否定する。

-カラマーゾフの兄弟から「異端を処刑する薪が燃えさかる16世紀スペインの町セビリアに、ある日キリストが現れた。彼は泣き叫ぶ母親のため、たちどころに死んだ女の子を蘇らせた。町の善男善女は、すわイエス様と色めき立ったが、この話を耳にした宗教裁判の責任者たる老大審問官は、ただちにイエスを捕縛し、牢獄に閉じこめさせた。そして深夜、密かに獄を訪れ、イエスをなじった『お前は人類に自由を与えたが、そのため人類がいかに苦しんだか知っているのか。お前は荒野で悪魔に試みられて、“人はパンのみに生くるに非ず”と答えた。あるいは我に従えば地上の栄華を悉くとらせようという申し出に対して、“主なる神にのみつかえん”と、すげない返事をした。この時お前は身をもって、良心の自由を人間どもに示したのだ』」。

・大審問官は続ける「だがお前の人間どもはどうだ。この哀れな生物には自由や天上のパンよりも地上のパンが遙かに大事で、お前の言う自由のためにかえって困惑し、苦悶した。我々はお前の名のもとに、その彼らから自由を取り上げて、彼らの救済という大事業に着手し、すでにその完成を見ている。今頃お前が出てきては、彼らを再び苦しめるだけだ。明日は我々の仕事の妨害に来たお前を火あぶりにする』。大審問官の難詰に囚人イエスは終始沈黙を守っていた。だがついに立ち上がって、大審問官の血の気のない唇に静かに口づけした。大審問官はぎくりとした。彼は突然牢獄の扉を開け、『出ていけ、二度と来るな』と叫ぶ。囚人は静かに暗い巷へ消えていく」。

 

  1. 悪魔のささやき

 

・精神科医でカトリック作家、加賀乙彦は「悪魔のささやき」(集英社新書)の中で、「悪魔のささやきというものがあるのではないか」と述べる。自殺未遂者の対面調査を行った時、ほとんどの人が「命を絶とうとした時、悪魔がささやいた」と述べていた。自殺を計る人の多くはうつ状態になり、自殺願望を持つようになり、それがあるきっかけで実行に移される。そのきっかけが「悪魔のささやき」ではないかと加賀は語る。

・「テーブルに目をやったら果物ナイフがあって、気がついたら自分の胸に突き刺していた」、「歩道橋の上で、生きていても仕方がないと考えていたら、いつの間にか歩道橋の手すりを超えていた」。彼は語る「この三つの誘惑は、当時聖書を書いた人々の心に深く刻まれていた何かの出来事の比喩ではないか。イエスの時代も、そして今も、悪魔が人間に囁きかけてくる時は、私たちの欲望を必ず刺激してくる。そのことを実にうまく表現した比喩だと思う」。

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