1.最高法院で裁かれるイエス
・イエスは大祭司カイアファの屋敷に連行された。直接的にイエスを処刑したのはローマ軍であったが、実際はユダヤ教の最高指導者たちにより、イエスは死に追い込まれた。ペトロは連行されるイエスに、距離をおきながらも、従いて行った。
-マタイ26:57-58「人々はイエスを捕えると、大祭司カイアファのところへ連れて行った。そこには、律法学者たちや長老たちが集まっていた。ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで行き、事の成り行きを見ようと、中に入って、下役たちと一緒に座っていた。」
・イエスの裁判は大祭司主導で行われた。彼らは初めからイエスを死刑にしようと企み、多くの証人が、イエスに不利な証言を次々と並べ立てた。しかし、決定的証言はなかなか得られなかった。最後に二人の証人が現れ、「この男は『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言った」と一致した証言をした。不可侵なる聖域である神殿を冒涜した。それは正統派ユダヤ教徒には赦せない事柄であった。
-マタイ26:59-61「さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしょうとしてイエスに不利な偽証を求めた。偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった。最後に二人の者が来て、「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることが出来る』と言いました」と告げた。」
・神殿管理の最高責任者である大祭司は、「神殿を打ち倒す」という証言に強く反応して立ち上がり、「あなたに不利な証言だ。弁明せよ」とイエスに命じた。しかし、イエスは何も答えなかった。
―マタイ26:62-63「そこで、大祭司は立ち上がり、イエスに言った。『何も答えないのか。この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。』イエスは黙り続けておられた。大祭司は言った。『生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。』」
・イエスは沈黙を破り、「あなたたちは、人の子が力ある方の右の座につき、天の雲に乗って来るのを見ることになる」と述べた。当時の人びとは終末の時、神が人を裁くため来臨すると信じていた。イエスは「自身がメシアとして来て世を裁く」と宣言された。大祭司はイエスの証言に叫んだ「諸君は今、神を冒涜する言葉を聞いた。これ以上の証人はもう必要ない。」他の人びとも「死刑にすべきだ。」と叫んだ。
-マタイ26:64-66「イエスは言われた。『それはあなたが言ったことです。しかし、私は言っておく。あなたたちはやがて、人の子が人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。』そこで、大祭司は服を引き裂きながら言った。『神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今冒涜の言葉を聞いた。どう思うか。』人々は、『死刑にすべきだ。』と答えた。」
・イエスの復活後、初代教会は安息日を土曜日から日曜日に変えた。これはユダヤ教との全面対決を初代教会が選んだことを意味する。そのため彼らは迫害された。裁判の後、イエスは見張りの下役たちから、唾をかけられ、こぶしで殴られ、平手で打たれた。このような体験を弟子たちもする。
-マタイ26:67-68「そして、イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら、『メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当てて見ろ』と言った。」
2.ペトロ三度イエスを否認する
・大祭司の女中はイエスに同行するペトロを記憶していた。彼女が「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言ったので、ペトロは狼狽して否定する。人はいざとなると、死ねない。最初の否認である。
-マタイ26:69-70「ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、『あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた』と言った。ペトロは皆の前でそれを打ち消して、『何のことを言っているにか、私には分からない』と言った。」
・ペトロは大祭司の屋敷を抜け出そうとした。門に近づくと、今度は別の女中に見咎められ,「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言われた。ペトロは「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。ペテロの否認がエスカレートしていく。
-マタイ26:71-72「ペトロが門も方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、『この人はナザレのイエスと一緒にいました』と言った。そこでペトロは再び、『そんな人は知らない』と誓って打ち消した。」
・三度目は周囲の人々から「お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いで分かる」とガリラヤなまりを指摘された。ペトロは進退窮まり、「そんな人は知らない」と呪いの言葉を口にした。その時、鶏が鳴いた。ペトロは今まで意識していなかったイエスの言葉「鶏が三度鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう」を思い出し、自分がイエスを裏切ったことを知り、激しく泣いた。
-マタイ26:73-75「しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。『たしかにお前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。』そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、『そんな人は知らない』と誓い始めた。するとすぐ鶏が鳴いた。ペトロは、『鶏が鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう』と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て激しく泣いた。」
・ペトロはイエスを裏切り、外に出て、大泣きした。しかし、死を選ばなかった。彼は仲間たちの下に帰った。その結果、彼は復活のイエスに出会い、教会の指導者として生かされていく。そのペトロが自分の過ちを告白した文章が聖書の中に残されている。
-第一ペトロ2:24「そして(イエスは)十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたは癒されました」。
3.イエスの裁判についての黙想
・「神はイエスを通してご自身を啓示してくださった、私たちはイエスを通して神に出会う」。それが初代教会の信仰であり、私たちの信仰だ。しかし祭司長たちはそのイエスを被告席に立たせ、死刑判決を下し、殺してしまった。現代の人びとも同じように神を被告席に立たせて責め立てる。彼らは言う「もし神がいるならば、600万の人がアウシュビッツで殺された時、何故何もしなかったのか」、「もし神がいるなら3.11の大津波で2万人の人が溺れ死ぬのを、何故放置されたのか」、「もし神がいるなら、本当にいるのならば、それを証明して見せよ」。現代人もまた神を被告席に立たせ、裁く。それは大祭司がイエスを裁いた裁判と同じ構図である。
-C.S.ルイス・被告席に立たされる神「古代人は鋭い罪意識を持ち、被告人が裁判官に近づくように神に近づいていった。しかし現代人は罪の意識を持たずに自分が裁判官となり、神が被告席につく」。
・ペテロはイエスが「今夜、あなたがたは皆私につまずく」と言われた時、「たとえ、みんながつまずいても、私は決してつまずきません」と答える。そのペテロは大祭司の屋敷で人々に「おまえもイエスの仲間だ」と問い詰められると、「そんな人は知らない」と三度否認する(26:74)。ヨハネ福音書によれば、弟子たちは故郷ガリラヤで復活のイエスに出会う。その時、イエスはペテロが裏切ったことを責められず、ただペテロに「私を愛するか」と三度聞かれる。ペテロは泣きながら告白する。「主よ、あなたは全てをご存知です。あなたは私の弱さを知っておられます。私はかつてあなたを裏切ったし、これからも裏切るかも知れません。しかし、私がどんなにあなたを愛しているかをあなたはご存知です」。そのペテロにイエスは「私の羊を飼いなさい」と命じられた(ヨハネ20:17)。かつてイエスを裏切った自分に群れが委ねられた事を知った時、ペテロは生れ変る。ペテロは弱い人間だったが、自分の弱さを知り、祈り求め、主によって強くされた。
・他方、イスカリオテのユダは仲間のところに戻らず、自死を選ぶ。しかしユダの罪とペテロの罪は同じだ。ペテロは語る「イエスによって選ばれ、任命された、仲間の一人がイエスを裏切り、死んでいきました。私たちはユダに代わる使徒を選ぶべきです」(使徒1:22)。ペテロはここでユダを非難していない。ユダの行為は彼一人の問題ではなく、自分たちも同じことをしたかもしれない、いや実際にしたとペテロは認識している。ユダがここにいないという事実は、いやでも自分たちの弱さ、逃亡、裏切りを思い起こさせる。イエスを裏切ったのは、ここにいるみんなも同じだ。ユダの問題はキリストを裏切ったことではなく、キリストのところに戻ることが出来なかった、この群れに戻れなかったことだ。過ちを犯したユダが群れに戻れず死んでしまったのは、自分たちがユダを受け入れず、ユダに必要な配慮をしなかったためではないかとペテロは自分を責めている。
-使徒言行録1:16-22「兄弟たち・・・ユダは私たちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました・・・そこで、主イエスが私たちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、私たちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、私たちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」