1.徴税人ザアカイの出会い
・イエスはエリコに入られ、その町で徴税人ザアカイに会われる。エリコは当時、エルサレムへ向かう交通と商業の要路であったから、町の税関長であったザアカイの収入は多く裕福であった。しかし、徴税人はロ-マ政府の手先であり、民衆から搾取していたので、同朋から罪人扱いされていた。ザアカイは、エリコの町を通るイエスの姿を見ようとしたが、背が低かったため、群衆に遮られて何も見えなかった、しかし、ザアカイはそれであきらめず、先回りしていちじく桑の木に登りイエスを待った。
-ルカ19:1-4「イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。」
・ザアカイは金持ちで社会的地位もあったが、人々から疎外されていた。そこにメシヤと評判のイエスが来られた。噂ではイエスの弟子の中に同じ徴税人レビがいた(5:27-32)。ユダヤ社会で差別され、疎外されていた徴税人をあえて弟子にするイエスの人柄に彼は心惹かれ、「ぜひ会いたい」と思った。だから思いつめたように走り、木に登った。イエスはその場所に来るとザアカイに声をかけられた。
-ルカ19:5「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日はぜひあなたの家に泊まりたい。』」
・イエスは、面識がないのに「ザアカイ」と名指しで呼びかけ、「今夜、あなたの家に泊まる」と言われた。突然の幸運にザアカイは感動し、木からすべり降り、イエスを迎えた。人々はイエスが罪深い徴税人の家に泊まると聞き、失望した(つぶやいた)。
-ルカ19:6-7「ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人々は皆つぶやいた。『あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。』」
・イエスは、「今夜、あなたの家に泊まる」と言われた。この箇所は原語のギリシャ語では、「デイ~しなければならない」が使われている。直訳すれば「今日、あなたの家に泊まらなければいけない」。人に笑われても良い、イエスを一目見たい、そのザアカイの一途な求めに、イエスは感動され、ザアカイの家の客になることを決意された。ザアカイはイエスから声をかけられ、びっくりし、また喜んだ。誰もが差別する中で、イエスは自分の家に泊まると言って下さった。そのイエスの行為がザアカイを根底から変える。
2.徴税人ザアカイの回心
・ザアカイは、イエスが気にかけて下さった感謝を、直ちに善行で報いようとした。彼はイエスを「主」と呼んだ。彼の人生観がイエスの一言により変えられた。彼は持てる財産の半分を貧者に施し、詐取したものを四倍にして被害者に返すとイエスに誓った。イエスはザアカイの回心を喜び、彼もアブラハムの子であると祝福し、人の子はこのような「失われた者」を救うために、世に来たのだと証しされた。
-ルカ19:8-10「しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。『主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら。それを四倍にして返します。』イエスは言われた。『今日、救いがこの人の家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は失われたものを救うために来たのである。』」
・ザアカイの財産の多くは民衆から掠め取ったものであったろう。彼は意識的であろうと無意識的であろうと、そのことを知っていて、罪責感に悩まされていた。イエスから宿泊を申し込まれた時、ザアカイはイエスの命令を待つまでもなく即座に、財産の半分を貧者に施し、だまし取ったものは四倍にして返しますと約束した。徴税人ザアカイは、積極的にイエスにまみえる努力をして救われた。他方、ルカ18章の金持ちの議員が財産に執着し救いの機会を逸してしまったのとは、対照的である。
・偏見から自由なイエスとの出会いがザアカイを変えた。救われたザアカイは徴税人を続ける。彼は自分の置かれた場で精一杯、正しいことを行い、貧しい人を大切にして生きようと決意し、イエスはその決意を受け入れられた。召命とは家族や職業を捨てて従うことではなく、今「置かれている場で精一杯生きる」ことなのだ。注目すべきは、イエスがザアカイに向かって、彼の金銭欲やローマへの協力について、何の非難もしていないことだ。イエスは無条件でザアカイを受容された。この無条件の受容が人の心を変えていく。「人を信頼していく、裏切られてもなお信頼していく」、それがイエスの生き方である。福音書の物語はほとんどが無名の人の出来事だが、少数の人は名前が残されており、それらの人々は教会内で名前が知られる人になったことを意味する。ザアカイは晩年にカイザリアの司教になったと伝えられている。「失われていた」ザアカイが「見出された」。無条件の受容がザアカイを変えた。
3.ムナのたとえ
・「ムナのたとえ」は歴史上の事実を下敷きにしている。紀元前四年、ヘロデ大王が死に、その領地を三人の息子、アンティパス、ピリポ、アケラオが分割相続した。長男アケラオがユダヤ地方の相続許可を得る為ロ-マへ出発した直後、残忍なアケラオの王即位を嫌うエルサレム市民は代表者をロ-マへ派遣し、皇帝アウグストゥスに訴えて、相続を阻止しようとした。ローマ皇帝はアケラオの相続は認めたものの王位は与えなかった。
-ルカ19:11「人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。」
・たとえの「ある立派な家柄の人」は領主アケラオで、遠い国は「ローマ」である。領主は十人の僕を呼んで、一人一ムナの金を預け「私の留守中にこの金を元手に商売をせよ」と命じ、領主不在中の僕の忠実度と能力を試そうとした。
-ルカ19:12-14「イエスは言われた。『ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。そこで、彼は十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、「私が帰って来るまで、これで商売をしなさい」と言った、しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、「我々はこの人を王にいただきたくない」と言わせた。』」
・王となって帰国した領主は、お金を委ねた僕たちを呼び出し、領主不在中に彼らが得た利益を報告させた。最初の僕は一ムナを十ムナにしたので、その忠実を褒めて十の町の支配権を与え、次の僕は一ムナを五ムナにしたので五つの町の支配権を与えた。1ムナは100デナリ、労働者の3ヶ月分の賃金に相当する。
-ルカ19:15-19「『さて、彼が王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。最初の者が進み出て、「御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました」と言った。「良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。」二番目の者が来て、「御主人様、あなたの一ムナで五ムナを稼ぎました」と言った。主人は、「お前は五つの町を治めよ」と言った。』」
・三番目に領主の前に出た僕は、預かった一ムナを運用せず、布に包み死蔵していた。その理由を領主が「預けないものを取り立て、蒔かないものを刈り取る暴君であるから、恐ろしかった」と語った。聞いた領主は「私をそのような王と思うなら、なぜ銀行に金を預けなかったのか。そうすれば利息がついたのに」と僕の不忠実を怒った。
-ルカ19:20-23「『また、ほかの者が来て言った。「御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。あなたは預けないものを取り立て、蒔かないものを刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。」主人は言った。「悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。私が預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。ではなぜ、私の金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来た時、利息つきでそれを受け取れたのに。」』」
・領主はそばに立つ者に、怠惰な僕の一ムナを取り上げ、十ムナ持っている者に与えよと命じた。命じられた者がいぶかしく思い、彼はすでに十ムナ持っていますと言うと、領主は「持っている者は更に与えられ、持たない者は持っているものまで取り上げられる」と、世の冷酷な法則を述べ、更に私が王になるのを望まなかった者を打ち殺せと命じる。
-ルカ19:24-26「『そして、そばに立っている人々に言った。「その一ムナをこの男から取りあげて、十ムナ持っている者に与えよ。」僕たちが、「御主人様、あの人は既に十ムナ持っています」と言うと、主人は言った。「言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。『ところで、私が王になることを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、私の目の前で打ち殺せ。』」
4.ムナのたとえの意味するもの
・ここには二つの物語がある。一つは高位の人が王の位と王冠を受けるために遠い国に出かけて行くという話だ。もう一つは、その人が出かけるに当たり、僕たちにお金を預けていくという話だ。二つの物語を分離して考える時、イエスが何を言われようとしているのが見えてくる。第一の物語を通して、イエスは聴衆に次のように語られている。「私は王冠を要求するためにエルサレムに向かいつつあるのではない。エルサレムで私を待っているのは十字架だ。私はそこで殺され、天に旅たつ。王冠をいただくのはその天においてだ。だが私はやがて帰ってくる。その時、神の国を拒否する者たち、私の言葉を受け容れなかった者にとって、人の子の訪れは喜びではなく、裁きになるだろう。王の任職に反対した者たちが処刑されたように、信じない者にとって終末は恐ろしいものになる。だから、悔い改めなさい。まだ、間に合うのだから」。これが第一の物語を通じたメッセージであろう。
・第二の物語は弟子たちに語られている。イエスはエルサレムで殺され、弟子たちだけが残される。残された弟子たちは何をしたら良いのか戸惑う。それぞれに信仰を与えられたが、それを増やすように求められている。その時、何もしなかった怠惰な弟子は、持っているものも取り上げられ、既に豊かに持っている者に与えられる。イエスはエルサレムで十字架にかけられ、天に旅立たれる。彼が再び戻られるまで「与えられたムナで商売をしなさい」と言われる。このムナは信仰あるいは福音と考えてよい。商売をせよ、活用しなさいということだ。福音はすべての人に平等に与えられており、問題はそれをどう生かすかだ。福音は大切にしまっているだけでは意味がなく、伝えられてこそ意味がある。それを自分だけのものとしてしまってしまう時、福音は力をなくす。信仰は使えば使うほど力を増していくが、使わなければ力を失い、消えてしまう。
・第三の僕は、福音と言う宝を与えられたのに、それを死蔵して使わなかった。三番目の僕は「恐ろしかった」から、何もしなかった。それは福音を律法のように受け取り、聖書の教えを教条的にとらえるからだ。「敵を愛しなさい」という戒めを「愛さなければならない」と義務的に受け取る時、嫌いな人を好きになることが出来ない自分に罪を感じて暗くなる。そうではなく、敵を憎む時、最も傷つくのは自分であり、人を憎むことによって良いものは何も生まれないことに気づかされた時、私たちは人を憎むという束縛から解放される。福音は解放の訪れ、喜びの知らせだ。私たちに福音が与えられたのは喜んで伝えるためであり、その時に福音の種は「あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶ」(マタイ13:23)。
5.タラントンの譬え
・マタイは同じ出来事をタラントンの譬えとして展開する。
-マタイ25:14-18「『天の国はまた次のように例えられる。ある人が旅行に出かける時、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、一人には一タラントン預けて旅に出かけた。早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして五タラントンをもうけた。同じように二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンもうけた。しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。』」
・マタイはタラントンの譬えの最後に、「持っている人は更に与えられ豊かになるが、持っていない人は持っているものも取り上げられる」と記す。
-マタイ25:29-30「だれでも持っている人は更に与えられ豊かになるが、持っていない人は持っているものも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
・これはイエスの言葉ではなく、マタイの付加とされる。社会学では「経済格差の拡大」等が「マタイ効果」と呼ばれる。社会学者ロバート・マートンは条件に恵まれた研究者は優れた業績を挙げることでさらに条件に恵まれる「利益—優位性の累積」メカニズムを指摘した。彼はマタイ福音書の「持っている人は与えられていよいよ豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」という言葉から、このメカニズムを「マタイ効果」と命名した。神学者の栗林輝夫は「マタイ効果」の負の側面を語る。聖書は時代の中で読むべきものだ。
-栗林輝夫・福音と世界2014年1月号「今日我々が目撃しているのは、経済のグローバル化によって、『持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる』(マタイ13:2、他)というマタイ効果であり、一部の企業家がとてつもない報酬を得る一方、大勢の若者がワーキング・プアに転落していく光景である。資本のグローバル化は生産拠点を労働力の安い地域に移動させ、人々を結びつけてきた地域の文化を根こぎにし、地方の中小都市の街を軒並みシャッター・ストリートにした。かつて日本は一億総中流の経済格差のない社会であったが、今では先進国の中でアメリカに次ぐ格差社会になってしまった」。