1.「十人のおとめ」の譬え
・マタイ福音書では24章から「終末(世の終わり)」の出来事を描く。最初に神殿崩壊が語られ(24:2)、世の終わりのしるしが語られ(24:15~)、準備をしない者は滅ぶ(24:36~)と警告され、最後に「目を覚ましていなさい」(24:42)と語られ、その文脈の中で「十人の乙女の譬え」が語られている。明らかに「終末をどう迎えるか」が課題となっている。
・「十人の乙女」の譬えは、元来はイエスが「身近に迫った最後の審判に備えて準備しなさい」と弟子たちに語られた譬えであろう。その譬えをマタイは、「天の国の到来、キリストの再臨を迎えるための信徒の心得」として展開している。婚礼では花嫁の付き添いの乙女たちが花嫁の家の前で灯し火を掲げて花婿を迎え、踊りを演じて歓迎する習慣があった。しかし、灯火はやがて消えてしまうため、予備の油が必要となる。愚かな乙女たちはその灯油の準備を怠っていた。
-マタイ25:1-4「『そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人の乙女がそれぞれ灯し火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな乙女たちは、灯し火は持っていたが、油の用意はしていなかった。賢い乙女たちは、それぞれの灯し火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。』」
・花婿の到着が遅れたのは、キリスト再臨の遅れを表している。マタイ時代の教会は再臨待望の熱意と、それがなかなか来ない焦燥感の中にあった。再臨を待望する者にとって、信仰の火を消すことなく、灯し続けることは重要であった。乙女たちが眠りこんだ真夜中、突然、花婿の到着が告げられ、灯油の用意をしていなかった愚かな乙女たちは、賢い乙女たちに灯油の借用を申し込むが、断られる。
-マタイ25:5-9「花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠りこんでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、乙女たちは皆起きて、それぞれの灯し火を整えた。愚かな乙女たちは、賢い乙女たちに言った。『油を分けてください。私たちの灯し火は消えそうです。』賢い乙女たちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』」
・愚かな乙女たちは予備の灯油を用意しなかったばかりに、宴会に遅れ、会場から締め出されてしまう。
-マタイ25:10-13「『愚かな乙女たちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかの乙女たちも来て、『ご主人様、ご主人様、開けてください。』と言った。しかし、主人は、『はっきり言っておく、私はお前たちを知らない。』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」
・初代教会は、キリスト再臨への強い信仰を持っていた。イエスの復活体験は強烈であり、終末は既に始まり、再臨は近いとの熱意を持ち続けた。それは会堂から排除され、迫害される教会の支えでもあった。「キリストの再臨を待ち望み、聖なる生活を続けなさい」とペトロの手紙は励ましている。
-第一ペトロ4:13-15「だからいつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。」
・しかし終末は来なかった。そのため現代人は終末や再臨の期待を失くしてしまった。2013年度教員採用適性検査の一項目に「キリストの再臨を信じるか」があったという(2014.11.16毎日新聞)。信じれば「カルト思想の持ち主」と分類されるのだろうか。現代ではキリスト者も含めて、「主の再臨」を信じなくなっている。そういう時代の中に私たちはいる。
-第二ペトロ3:8-9「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせているのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」
・この譬えには強い自己責任が唱えられている。失敗者(予備の油を忘れた者)は救われないという思想はイエスのものでなく、マタイの付加であろう。神は「人の滅びではなく、救いを望んでおられる」とイエスは考えられたと思われる。
-カール・バルトの注解「イエス・キリストを信じる者も信じない者もすべて神の怒りから救い出される。地獄は存在するかもしれないが、最後には空き家になる」。
2.タラントンの譬え
・この譬えもまた終末と再臨を前提にしている。「不在の主人」とは天に昇ったキリストを指す。キリストがなかなか来ない(長い旅に出ている)、その間を私たちはどのように待つのかが語られている。人は与えられた才能(タレント)をどのように生かすべきか、人に与えられる才能は神から託されている賜物(カリスマ)であることを自覚せよと語られる。タラントンは貨幣の単位で、一タラントンは6,000デナリ、銀40キロに相当する。一デナリは当時の日給だったので、一タラントンは約16年分の賃金となる。最初の僕に託された五タラントは、八十年分の賃金という膨大な金額である。
-マタイ25:14-18「『天の国はまた次のように例えられる。ある人が旅行に出かける時、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、一人には一タラントン預けて旅に出かけた。早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして五タラントンをもうけた。同じように二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンもうけた。しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。』」
・主人が僕に託したタラントンは三人とも同額ではない。しかし、五タラントン預かった僕も二タラントン預かった僕も、平等に忠実な僕と評価されている。僕の忠実度は預かった額や儲けの額ではではなく、それぞれの努力に対する評価である。このタラントンから「タレント(才能)」という言葉が生まれた。
-マタイ25:19-23「かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『ご主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』次に二タラントン預かった者も進み出て言った。「ご主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。」主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』」
・主人がタラントンを生かすように預けたのであれば、預かった一タラントンを地中に埋めてしまった僕は怠け者ということになる。「タラントンを減らさぬよう地中に隠しておいた」という僕に対して、主人は「私を厳しい主人だと思うなら、銀行にタラントンを預けるべきだった」と非難している。
-マタイ25:24-28「ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『ご主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、私の金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息つきで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。』」
・才能は用いれば用いるほど豊かになる。一タラントンを用いなかった僕は、豊かどころか全てを失ってしまった。この喩えは「他の人は五タラントンや三タラントンなのに、自分は一タラントンだ」として、不満を持つ人の投げやりな生き方を戒めている。彼は一タラントンがどれだけ大きい恵みかを忘れていた。
-マタイ25:29-30「だれでも持っている人は更に与えられ豊かになるが、持っていない人は持っているものも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
・「だれでも持っている人は更に与えられ豊かになるが、持っていない人は持っているものも取り上げられる」はイエスの言葉ではなく、マタイの付加とされる。社会学では「経済格差の拡大」等が「マタイ効果」と呼ばれる。社会学者ロバート・マートンは条件に恵まれた研究者は優れた業績を挙げることでさらに条件に恵まれる「利益—優位性の累積」メカニズムを指摘した。彼はマタイ福音書の「持っている人は与えられていよいよ豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」という言葉から、このメカニズムを「マタイ効果」と命名した。
・神学者の栗林輝夫は「マタイ効果」の負の側面を語る。聖書は時代の中で読むべきものだ。
-栗林輝夫・福音と世界2014年1月号「今日我々が目撃しているのは、経済のグローバル化によって、『持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる』(マタイ13:2、他)というマタイ効果であり、一部の企業家がとてつもない報酬を得る一方、大勢の若者がワーキング・プアに転落していく光景である。資本のグローバル化は生産拠点を労働力の安い地域に移動させ、人々を結びつけてきた地域の文化を根こぎにし、地方の中小都市の街を軒並みシャッター・ストリートにした。かつて日本は一億総中流の経済格差のない社会であったが、今では先進国の中でアメリカに次ぐ格差社会になってしまった」。