江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2022年7月27日祈祷会(ルカ11:27-54、癒しをどう受け入れるか)

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1.神の国の印としての癒し

 

・2000年前の人々は、人が病気になり障害になるのは悪霊の働きだと考えていた。目が見えず口の利けない障害を持つ人は罪を犯したため、神の怒りによって障害になったと断罪し、汚れた者として排斥した。

-レビ記21:18-21「だれでも、障害のある者、すなわち、目や足の不自由な者、鼻に欠陥のある者、手足の不釣り合いの者、手足の折れた者、背中にこぶのある者、目が弱く欠陥のある者、できものや疥癬のある者、睾丸のつぶれた者など・・・障害のある者はだれでも、主に燃やしてささげる献げ物の務めをしてはならない・・・彼には障害があるから、垂れ幕の前に進み出たり、祭壇に近づいたりして、私の聖所を汚してはならない。私が、それらを聖別した主だからである」。

・障害者は社会に受け入れられず、物乞いとして生きていた。イエスはこの人が、障害ゆえに苦しんでいる様をごらんになって、憐れまれ、癒され、この人は口が利けるようになった。

-ルカ11:14-15「イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した」。

・悪霊を追い出したイエスの力ある業に感動した、一人の女が、群衆の中から声をあげ、イエスの母の幸いを褒めた。しかし、イエスは神の言葉に従う者こそ幸いであると応じられた。ここには子を生むことによって価値を認められる人間観からの解放がある。

-ルカ11:27「イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。『なんと幸いなことでしょう。あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。』しかし、イエスは言われた。『むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。』」

・群衆は驚嘆したが、イエスに反対するファリサイ派の人びとは「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と非難した。

-ルカ11:16「しかし、中には、『あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している』と言う者や、イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた」。

・イエスは反論された「サタンが内輪もめすれば、どうして国は成り立って行くだろうか」。サタンはそんなに愚かではない。そして言われた「私が神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。

-ルカ11:17-20「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは私がベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うが、どうしてその国が成り立って行くだろうか・・・しかし、私が神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちの所へ来ているのだ。』」

・イエスは言われた「神の国は既に来ている。耳が聞こえず、口の利けないこの人が癒されたことこそ、神の憐れみのしるしではないか。何故、一緒に喜ぶことが出来ないのか」。日本では30万人の人が精神の病で入院しているが、二人に一人は5年以上の長期入院だ。症状が落ち着いても彼らは退院できない、家族の反対とうで帰り先がないからだ。イエスは私たちに問いかけられる「その人たちもあなたの隣人か。あなたはその人たちを“悪霊に取り付かれている”として、排除していないだろうか」。

・病の癒しをどう考えるべきだろうか。神の言葉を聞き、信じる時に癒しの奇跡が生まれる。

-青野太潮・苦難と救済から「絶対的に帰依した対象である教祖なり指導者なりの一言一句が、血となり肉となる形で、信徒の内に本来備わっている能力(自然治癒力)を引き出し、想像もしなかったような病気の治癒がそこで為されたりする」 。

・イエスを信じない人々は、悪霊払いが「神によるしるし」ならその証拠を見せよと迫った。イエスは、「口の利けない人が治った。それが神によるしるしではないか」と言われたが、彼らは納得しない。

-ルカ11:29-30「群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。『今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる。』」

・南の国の女王は神の言葉を聞くためソロモンを訪れ、ニネベの人々はヨナの告げた神の啓示を聞いて悔い改めた。今、ソロモンやヨナにまさるイエスが神の言葉を語られるのに、人々は信じようとはしない。

-ルカ11:31-32「『南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者と一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来た。ここにソロモンにまさるものがある。またニネベの人々は裁きの時、今の時代の者と一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めた。ここに、ヨナにまさるものがある。』」

・イエスはなぜ、癒しをされたのだろうか。「障害を持つ彼は悪霊に取り付かれている」として、疎外されている人がそこにいるからこそ、憐れまれた。障害があることはつらいことだが、それ以上に、障害ゆえに差別され、排除されることが問題なのだ。私たちにはイエスのような病の癒しは出来ない。しかし、差別され、排除された人を、隣人として迎えることは出来る。「束縛からの解放はすでに始まった、神の国は来た」、それを証していくことこそ、私たちの役割だ。イエスが宣教の始めに故郷ナザレで語られたことの中にイエスの覚悟がある。しかし人々はイエスを受け入れなかった(ルカ4:28-29)。

-ルカ4:18-19「(イエスは言われた)主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。

 

2.イエスのファリサイ派批判

 

・イエスに批判的なファリサイ人は食前に手を洗わないイエスを攻撃する。彼らには手洗いは衛生上の問題ではなく、律法の問題であった。ファリサイ人は外出から帰ると、必ず手を洗った。不浄な民やものとの接触による宗教的な汚れを清めるためであった。ファリサイ派は分離派、自らの清さを誇る人々だった。

-ルカ11:37-38「イエスがこのように話しておられた時、ファリサイ派の人々から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた。ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った。」

・人々にイエスは語られた「あなた方は外側を清く見せるが、内側は汚れている」のではないかと。

-ルカ11:39-41「主は言われた。『実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。愚かな者たち、外側を造られた神は内側もお造りになったのではないか。ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。』」

・イエスは続けられる「あなたが十分の一の献げ物をしても、心からでなければ真の価値はない」と。

-ルカ11:42「『あなたたちファリサイ派の人は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。』」

・ファリサイ派の人々は名誉を欲し、おおげさな挨拶を好む。彼らファリサイ派は、人々に仕えるべき使命を忘れている。それはまるで墓の中で腐敗している死骸のように醜い。

-ルカ11:43-44「『あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ。あなたたちは不幸だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない。』」

・イエスはユダヤ教そのものを否定されているのではない。イエスは律法を守ることのできない人々、罪人と排除されていた人々を無条件に受け入れられた。しかしファリサイ派の人々は、「ユダヤ教の宗教規定(律法)を守るか守らないか」を救済の条件にした。イエスの激しい批判に、律法の専門家が反発した。

-ルカ11:45-46「そこで、律法の専門家の一人が、『先生、そんなことをおっしゃれば私たちを侮辱することになります。』と言った。イエスは言われた。『あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。』」

・イエスは律法学者たちが、「表面的には預言者を敬うが、実際は彼らを殺した先祖と同じことをしている」と批判を始められる。彼らは神から遣わされた預言者ヨハネの警告を無視し、今は神の言葉を語るイエスを殺そうとしている。

-ルカ11:47-48「『あなたたちは不幸だ。自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ。こうして、あなたたちは先祖の仕業の証人となり、それに賛成している。先祖は殺し、あなたたちは墓を建てているからである』。だから神の知恵もこう言っている。「私は預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する。」

・彼等は聖書から民衆を遠ざけてしまった。イエスから批判された律法学者らはイエスを憎む。

-ルカ11:51-54「『あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ。』イエスがそこを出て行かれると、律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き、イエスに質問を浴びせ始め、何か言葉尻をとらえようとねらっていた。」

・ルカ11章から教えられることは、私たちには何も出来なくとも、出来る方がおられることである。私たちは悪霊を追い出し、病気をいやす力を持たない。しかし、その力を持たれるイエスの元に、私たちは未解決の苦しみをそのまま差し出せばよい。八木重吉は語る「一筋の道なり、キリストの道なり、我が弱きを強くする道なり」(「八木重吉に出会う本」いのちのことば社より)。

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