1.洗礼者ヨハネの死とヘロデ王
・洗礼者ヨハネは紀元28年頃にヨルダン渓谷に現れ、「終末が近づいた。悔い改めよ」として、洗礼運動を行った。当時ユダヤではローマの植民地支配に対する叛乱が続き、世情は騒然とし、人々は「世の終りが近づいている」と思い始めていた。そのためユダヤ全土から多くの人々がヨハネの元に集まり、洗礼を受け、イエスもヨハネの呼びかけに応じてユダヤに赴き、受洗し、ヨハネの弟子となられた。その洗礼者ヨハネがガリラヤとペレアの領主だったヘロデ・アンティパスによって殺されるという出来事が起きた。マタイはヘロデ王が自分の結婚のことをヨハネから批判された為、捕えて獄に入れたとする。
-マタイ14:3-5「ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕えて縛り、牢に入れていた。ヨハネが、『あの女と結婚することは律法で許されていない』とヘロデに言ったからである。ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたが、民衆の批判を恐れた。民衆はヨハネを預言者と信じていたからである。」
・マタイは、ヘロデ王の誕生祝いの宴で、妻ヘロディアの娘サロメの踊りが彼を喜ばせ、「願うものは何でも与えよう」と彼は誓い、母ヘロディアにそそのかされた娘は、洗礼者ヨハネの首を所望したと記す。
-マタイ14:6-8「ところが、ヘロデの誕生日にヘロディアの娘が、皆の前で踊りをおどり、ヘロデを喜ばせた。それで彼は娘に、『願うものは何でもやろう』と誓って約束した。すると、娘は母親にそそのかされて、『洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場で下さい』と言った」。
・ヘロデ・アンティパスに躊躇はあったが、領主の権威にかけて、ヨハネの首をはねたとマタイは書く。
-マタイ14:9-11「王は心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、それを与えるよう命じ、人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた、その首は盆に載せて運ばれ、少女に渡り、少女はそれを母親に持って行った」。
・歴史家ヨセフスは、「洗礼者ヨハネの人気が高まり、それが叛乱の種になりかねないと懸念した領主ヘロデ・アンティパスが、政治的な理由でヨハネを捕らえて殺した」と「古代誌」の中で述べる。史実的には、ユセフスの記述のほうが正しく、マタイの記事は民間伝承に基づく物語と思われる。すべてが終わった後、ヨハネの弟子たちは、師の遺体を引き取り、葬り、彼らはイエスに事の次第を報告した。
-マタイ14:12「ヨハネの弟子たちが来て、遺体を引き取って葬り、イエスのところに行って報告した。」
・ヨハネがヘロデに逮捕された後、イエスはヨハネ教団を離れて伝道活動を始められ、その評判が次第に高くなっていった。民衆のある者はイエスを「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返った。だから、奇跡を行う力が彼に働いている」と評し、別の人は「イエスは預言者エリヤだ」と言い、さらには「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。ガリラヤ領主ヘロデ・アンティパスはイエスのそのような評判を聞いた時、「私が首をはねたあのヨハネが生き返ったのだ」と恐れた。
-マタイ14:1-2「そのころ、領主ヘロデはイエスの評判を聞き、家来たちにこう言った。『あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。』」
2.五千人に食べ物を与える
・ヨハネの死を聞いたイエスは、舟に乗り対岸の淋しい場所へ退いた。一人静かに祈るためであった。群衆はイエスが退かれることを聞き、方々から群れ集まり、イエス一行の後に従った。イエスは付き従う彼らの中に、病んでいる者がいるのを見て、深く憐れみ、癒された。
-マタイ14:13-14「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人を癒された」。
・夕刻になり、食事時が来たので、群衆を解散させ、それぞれに食べ物を調達させるよう、弟子たちがイエスに提案した。そこは人里を離れた場所であり、食糧調達には困難な場所であった。イエスは弟子たちに「あなたたちが彼らに食べさせなさい」と言われた。
-マタイ14:15-16「夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。『ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。』イエスは言われた。『行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。』」
・弟子たちは驚きイエスの言葉を遮った「ここには五つのパンと二匹の魚しかありません」。弟子の言葉を聞いたイエスは、パンと魚を手に取り、天を仰いで祈り、パンを裂き群衆に配らせた。五つのパンと二匹の魚は群衆の空腹を満たし、残りのパン屑は十二の籠いっぱいになった。
-マタイ14:17-20「弟子たちは言った。『ここにはパン五つと魚二匹しかありません。』イエスは『それをここに持って来なさい』と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚をとり、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。そして、残ったパンの屑を集めると十二の籠いっぱいになった。食べた人は女と子供を別にして、男は五千人ほどであった。」
・教会が主の晩餐式を執り行うようになった経緯については二つの流れがある。一つはイエスと弟子たちの最後の晩餐を記念するもの、もう一つはイエスが群集と共に取られた荒野の食事に起源を持つ。イエスは集まった群集が食べるものもない状況を憐れまれ、手元にあったパンと魚で五千人を養われた。大勢のものが一つのパンを食する、今日で言えば愛餐の食事が、主の晩餐式になったと考える人もいる。初代教会では、最後の晩餐と、荒野での共食が一つになって、主の晩餐式が執り行われた。弟子たちとの会食を強調する教会では主の晩餐式をクローズで行い(受洗者のみが参加する)、荒野の共食を重視する教会はオープンで行う(だれでも参加できる)。バプテストの群れでは、「どちらも正しく、どのように行うかはそれぞれの教会の選びだ」と認める。
3.パンの奇跡の意味を考える
・現代人はこの奇跡に納得できる解釈を求める。代表的なものが、「子供が差し出した五つのパンと二匹の魚に共感した群衆の中の有志が、次々にパンなどの食料を差し出したので、全員が食べられた」との解釈である。多分、そうであったのだろう。その理解から、私たちは、今持っているものを惜しみなく、差し出し、共に生きることを願う。イエスは群衆の中から、共に生きるための隣人愛の精神を導き出した。それこそがまさにイエスの起こした奇跡なのである。
・イエスがパンと魚を祝福して人々に配られると、そこにいた人々を「満腹させ」、またパンくずが「十二のかごに一杯になった」。この奇跡の意味はどこにあるのだろうか。弟子たちは目前の五千人の人を見て、また手元に五つのパンしかないのを見て、「これではとても役に立たない」とあきらめる。しかしヨハネによると、小さな子供は弟子たちが困っているのを見て、自分の手元にある五つのパンを差し出したという。それが奇跡を生んだ。
-ヨハネ6:7-9「フィリポは、『めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう』と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。『ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。』」
・差し出してどうなるという当てはなかったけれど、子供は自分が食べるのをあきらめて差し出した。イエスはそこに子供の信仰を見られた。「その信仰さえあれば神は応えて下さる」とイエスは信じ、天を仰いで感謝された。私たちの手の中にあるもの、それがどんなに小さく僅かであっても、イエスの前に差し出され、イエスに祝福され、主の御用のために用いられる時、10倍にも100倍にも増やされていくことを物語は示唆している。もし私たちが生活の中で、「あれもない」、「これもない」と不足や不満を言っている時、それは私たちがピリポやアンデレの陥った過ちに陥っている。「必要なものは神が与えて下さる」ことを忘れているからだ。
・ドイツの神学者ボンヘッファーはこの箇所について述べる「我々が我々のパンを一緒に食べている限り、我々は極めてわずかなものでも満ち足りる。誰かが自分のパンを自分のためだけに取っておこうとするとき、初めて飢えが始まる。これは不思議な神の律法である。二匹の魚と五つのパンで五千人を養ったという福音書の中の奇跡物語は、他の多くの意味と並んで、このような意味を持っている」(「共に生きる生活」P62)。
・ボンヘッファーの言葉は印象的だ。わずかなものでも一緒に食べるとおいしい。イエス時代の食卓は貧しいものだった。大麦のパンと塩とオリーブ油、飲み物としては水か薄めたぶどう酒、魚や肉を食するのは祭りの時だけだった。しかし家族が集まって食卓を囲み、感謝の祈りの後に食事をいただき、一日の出来事を話し合う、団欒の時だった。一方、現代の私たちの食卓には肉や魚があふれているが、家族で食卓を囲むことは少なくなった。それぞれが忙しい生活の中で、勝手な時間に、カロリーを補給するだけの食事をする、そのような家庭が増えてきた。「共に食べる」、私たちが見失ってしまった豊かさがこの物語の中にある。