1.ペトロの信仰告白
・イエスは弟子たちとピリポ・カイザリアに向かわれる。この後、イエスはエルサレムに向かわれるが、そこにはイエスに敵意を持つ祭司長や律法学者が待ち受け、イエスは殺される危険があった。だから、イエスはエルサレムで待ち受けている苦難を弟子たちに伝え、彼らの覚悟を求めたいとして、北の保養地に行かれた。その地で、イエスは弟子たちに「人々は私のことを何者だと言っているのか」と尋ねられた。
-マタイ16:13「イエスはフィリポ・カイザリア地方に行った時、弟子たちに、『人々は、人の子を何者だと言っているか』とお尋ねになった」。
・人々は、イエスを「洗礼者ヨハネだ、エリヤだ、エレミヤだ、預言者の一人だ」などと言っていた。
-マタイ16:14「弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
・イエスはさらに問われる「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」。弟子たちを代表する形でペテロが答えた「あなたはメシア、生ける神の子です」。
-マタイ16:15-16「イエスが言われた。『それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか。』シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた」。
・ペテロの告白に対して、マタイは17節以降でイエスの祝福の言葉を記す。
-マタイ16:17-19「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、私の天の父なのだ。私も言っておく。あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。
・この個所はマタイが基本資料としたマルコ福音書になく(マタイの50%はマルコから取られている)、並行するルカ福音書にもない(マタイとルカは30%が同じ記事)ことから、マタイが独自に編集して挿入した言葉とされる。イエスは人々に「悔い改め」を求められたが、それは「教会」を形成するためではなく、終末を前に、人々に「終末への準備」を迫るためであった。しかしイエスは志半ばで十字架に殺され、復活され、そこに「イエスは主である」と告白する教会が生まれてきた。「あなたはメシア、生ける神の子です」は、イエス生前のペテロの告白ではなく、復活後のマタイ教会の信仰告白の言葉だ。
-アルフレッド・ロワジー「イエスが教えたのは神の国の到来であったが、やってきたのは教会だった」。
2.イエス、死と復活を予告する
・イスラエルの宗教指導者たちは、イエスに敵対し、迫害の度を強めている。エルサレムに行けば受難は避けられない。それが父なる神の御心であれば受けようとイエスは決心しておられ、イエスは弟子たちに受難を予告された。
-マタイ16:21「この時から、イエスは御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者らから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっていると、弟子たちに打ち明け始められた」。
・弟子たちは耳を疑った。神から遣わされたメシアが殺されて死ぬ、そんなことはありえない。マタイは「ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた」と記す。それに対してイエスは「サタン、引き下がれ」とペテロを激しく叱りつける。
-マタイ16:22-23「するとペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません』。イエスは振り向いてペトロに言われた。『サタン、引き下がれ、あなたは私の邪魔をする者。神のことを思わず人間のことを思っている』」。
・人はいつも「栄光のメシア」を求める。弟子たちは「この人に従っていけば、自分たちもひとかどの者なれる」と思い、イエスがエルサレムで王位につかれ、自分たちも相応の地位を与えられると期待していた。その弟子たちにイエスは「死ぬためにエルサレムに行く」と言われる。「とんでもない」という思いが、ペテロの激しい言葉を引き出し、イエスは「サタンよ、引き下がれ」と激しく叱責された。出来事からわかることは、イエスの生前、弟子たちはイエスを理解出来ず、「イエスは神の子」との信仰は持てなかったという事実だ。だから彼らは、イエスが捕らえられた時には逃げ去り、「お前はイエスの仲間だ」と告発されると、「そんな人は知らない」と否定する。その彼らが復活のイエスとの出会いを通して変えられていく。
-ヨハネ21:17「三度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、私を愛しているか。』ペトロは、イエスが三度目も、『私を愛しているか』と言われたので、悲しくなった。そして言った。『主よ、あなたは何もかもご存じです。私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。』イエスは言われた。『私の羊を飼いなさい』」。
・復活のイエスが弟子たちに託した言葉「私の羊を飼いなさい」が、マタイの「私はあなたに天の国の鍵を授ける」という言葉に示されている。復活のイエスはさらに弟子たちに言われる。
-マタイ16:24-25「それから弟子たちに言われた。『私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者はそれを失うが、私のために命を失う者は、それを得る』」。
・イエスは復活後昇天されたが、やがて再臨されると弟子たちは信じ、その時は近いと信じた。この再臨の近接が、初代教会を伝道共同体にした。16:26-28の言葉も当然に教会の信仰告白の言葉である。
-マタイ16:26-28「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのにどんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる」。
3.聖書は複合的に読む必要性がある
・ヨハネ20章にも、復活されたイエスが、弟子たちに群れを委託した言葉が残されている。
-ヨハネ20:22-23「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた『聖霊を受けなさい。だれの罪でもあなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でもあなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る』」。
・この言葉を読む時、そこにマタイ16章と同じ言葉が語られていることに気付く。マタイ16章のイエスの祝福の言葉は、復活のイエスが弟子たちに語った委託の言葉なのだ。
-マタイ16:19「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」
・生前のイエスは、「神の国が来る」と宣教され、「神が新しい世をお造りになる。だから悔い改めて待て」と命じられた。そのイエスが十字架で死なれ、復活して弟子たちに現れ、弟子たちはイエスが神の子であったことを知った。そのイエスに弟子たちは告白する「あなたこそメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)。その告白に対して、復活のイエスが「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、私の天の父なのだ」(マタイ16:17)と祝福しておられる。
・地上を生きる私たちは、本当の意味での信仰告白をすることが難しい。ペテロの信仰告白にしても当初は見当違いの信仰告白であり、「サタンよ、退け」とイエスに叱責され、裏切りと挫折を経て復活のイエスに再会し、本当の信仰告白にたどり着いた。日本の教会では、洗礼を受けた信徒の六割以上は、やがて教会から離れる。それは私たちの信仰が、「自我の業としての信仰」にとどまっているからだと、精神科医赤星進氏は語る(赤星進「心の病気と福音」)。
-赤星進「自我の業としての信仰とは、救われるために神を信じる信仰だ。この病を癒してほしい、この苦しみを取り除いてほしいとして、私たちは教会の門をたたき、聖書を読み、バプテスマを受ける。しかし、この信仰に留まっている時は、やがて信仰を失う。なぜならば、自我の業としての信仰は、要求が受け入れられない時には、崩れていく」。
・赤星氏は続ける「神の業としての信仰を持て」と。弟子たちは復活のイエスに出会うことによってこの信仰を与えられ、イエスのために死を恐れない者とされた。
-赤星進「それは赤子が母親に対してどこまでも信頼するのに似た、神に対する信頼だ。生まれたばかりの赤子は一人では生きていくことができず、一方的に母親の愛を受け、その中で安心して生きていく。イエスが示されたものはこの信仰、神への基本的信頼の信仰ではないか」。
・私たちは、信仰告白をして洗礼を受けても、いろいろな出来事の中で、教会につまずき、教会を離れ、信仰を無くしてしまう存在だ。しかし、キリストはいつでも帰還を待っておられ、キリストの弟子たち(教会)はいつでも歓迎の準備をしている。今教会にいる私たちも失敗し、挫折し、教会を離れたことがあるからこそ、教会を離れている友を「迎える」ことが出来る。ペテロの体験は私たちの体験なのである。
-ヨハネ黙示録3:20「見よ、私は戸口に立って、たたいている。だれか私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう」。