1.「からし種」の譬え
・からし種は種の中で最も小さい。イエスがからし種を譬えに用いたのは、小さな種の大きな成長力を語りたかったゆえであろうか。からし種は成長すると、3メートルを超える灌木になり、鳥はその黒い実を好んで群れをなすと言われる。天の国はそのように大きく成長する。
-マタイ13:31-32「イエスは別の譬えを持ち出して、彼らに言われた。『天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜より大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。』」
・からし種は生命力が強く、どのような荒れ地においても育つ。その「強い生命力こそ求められる信仰だ」とイエスは言われたのかもしれない。小さな「からし種のような信仰」であっても、信じれば山を動かす大きなものになりうる。
-マタイ17:20「イエスは言われた『はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、ここから、あそこに移れと命じてもその通りになる。あなたがたにできないことは何もない』」。
2.「パン種」の譬え~否定から肯定へ
・イスラエルでは自家用のパンは主婦が焼いた。三サトンのパン粉は39リットル、かなりな大人数の家族のパンである。パンを焼いたら、次のパンを焼くため少量のパンの塊をパン種として残しておく。残されたパン種はその間に発酵し、その手順をくり返して、パン種は引き継がれる。
-マタイ13:33「また、別の譬えをお話しになった。『天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜるとやがて全体が膨れる。』」
・イエスは腐敗と悪の象徴とされたパン種を、天国の譬えに用い、良いものの譬えに変えてしまわれた。女性が山のような小麦粉の中に、「腐敗した」パン種を隠し入れると、それは多くの人を養う命のパンとなる。パン種を入れないパンは固く、パン種を入れたパンの柔らかな舌触りには及ばない。パン種が粉に変化を与えるように、天の国は人生に活力と希望を与える。イエスは当時の社会の中で「腐敗したパン種」のように見られていた罪人や徴税人、娼婦たちこそ、神の国の住民になると喩えの中で言われている。
-マタイ21:31-32「イエスは言われた。『はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。』」
・当時の人びとはパン種によるパンの膨張を腐敗のしるしと考え、祭儀的に汚れたものとして、過ぎ越しの祭りの前には、家にある限りのパン種は、すべて捨てるように命じられている。
-出エジプト記12:15「七日の間、あなたたちは酵母を入れないパンを食べる。まず、祭りの最初の日に家から酵母を取り除く。この日から第七日までの間に酵母入りのパンを食べた者は、すべてイスラエルから断たれる」。
・旧約の伝統の中にあったイエスの弟子たちさえも、パン種を「腐敗と悪の象徴」として、理解していた。パウロさえもそう考え、「パン種を除きなさい」と語る。「パン種の中に天の国がある」というイエスの発想は、弟子たちにさえ理解されなかったのだろうか。
-第一コリント5:7-8「いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、私たちの過越の小羊として屠られたからです。だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか」。
3.畑に隠された宝の譬え、良い真珠の譬え、網の譬え
・イエスの時代、財産の隠し場所の一つが畑であった。畑に宝を隠した持ち主が死ぬと、宝は畑の中で人知れず眠り続ける。そんな宝を見つけた者の喜びは筆舌に尽くし難かった。その喜びを、イエスは天国を見つけた者の喜びに譬えている。
-マタイ13:44「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」。
・良い真珠を探し出した者は、全てを捨ててその真珠を手に入れようとする。天の国はその真珠にさえ勝る。
-マタイ13:45-46「また、天の国は次のように譬えられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う」。
・大事なものを見出した人は、全てを捨てて、大事なものを手に入れようとする。新約における福音は、旧約では智恵であった。「知恵の価値は金銀に勝る」と箴言は語る。
-箴言8:10-11「銀よりもむしろ、私の諭しを受け入れ、精選された金よりも、知識を受け入れよ。知恵は真珠にまさり、どのような財宝も比べることはできない」。
・次に「網の譬え」が語られる。漁師は値段の高い魚と安い魚を選り分け、売りものにならない魚は捨てる。判別する漁師の目は厳しい。神は漁師のように人を裁く、人は最後の審判の時に、「この世で何をしたかで裁かれる」との譬えであろう。ここでは義人の救いよりも悪人についての裁きの方に重点が置かれ、「悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」と語られる。おそらくはイエスの言葉というよりも、初代教会の編集句であろう。
-マタイ13:47-50「また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ下ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになりと、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりもそうなる。天使たちが来て、正しい人の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」
4.ナザレで受け入れられない
・イエスは故郷へ行かれたが、そこでは人々はイエスを受け入れなかった。神学校を出たばかりの牧師が、一番説教し難い場所は自分が子供の時いた教会である。そこには彼の未熟な時を知り、成人した彼を信用しない人々がいる。イエスも同じことを故郷ナザレで経験した。イエスは故郷の会堂で説教の機会を与えられたものの、イエスの子供時代を知り、イエスの父、母、兄弟を知る会衆は不信を露わにした。「預言者、鄕里に容れられず」という諺の通りである。人々はイエスにつまずいたのである。
-マタイ13:53-56「イエスはこれらの譬えを語り終えると、そこを去り、故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。『この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。』」
・原典のマルコでは、イエスはナザレでは「何も奇跡を行うことができなかった」としるす(マルコ6:6)がマタイはそれを緩和して、「あまり奇跡はなさらなかった」と記す。
-マタイ13:57-58「このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは『預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである。』と言い、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡はなさらなかった。」
・イエスはカペナウムで12年間も出血に悩む女性を癒し、また会堂長の娘を死の床からよみがえらせた。そのイエスがナザレでは何の奇跡も行えなかった。福音書を注意深く読めば、イエスが奇跡を起こされる時には、いつも誰かを助けるため、誰かを悲しみから立ち上がらせるため、誰かの必要を満たすためであった。人々に対する愛、憐れみのゆえに、神の力(デュミナス)が働いて、そこに力ある業が起きる。逆に言えば、救いを求める人がいなければ奇跡は起こらないし、起こせない。郷里の人たちは「カペナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ」と思っていた(ルカ4:23)。
・イエスが為された癒しについて、聖書学者の青野太潮は、「そこに信頼関係がなければイエスも何もできなかった」と語る。求めのない所においては神の業は働く余地はない。これは大事な真理である。
-青野太潮「苦難と救済」から「絶対的に帰依した対象である教祖なり指導者なりの一言一句が、血となり肉となる形で、信徒の内に本来備わっている能力(自然治癒力)を引き出し、想像もしなかったような病気の治癒がそこで為されたりする」。「イエスといえども、相手が彼を全く信用しなければ、そこから何かを引き出すことは全く出来なかった」(マルコ6:5-6、「苦難と救済p241」)。