江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2021年2月17日祈祷会(マタイ福音書6:1-15、主の祈りを生きる)

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  1. 施しをする時には

 

・イエス時代のユダヤ教徒の三つの義務は、「施しと祈りと断食」であった。人々はそれらの義務を果たしてはいたが、表面だけのものであった。イエスは彼らの心を見抜いて厳しく戒め、真の施しと祈りと断食は、かくあるべきと教えられた。

-マタイ6:1-2「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父の報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。

・ファリサイ人たちは慈善活動を目立たせることで世の賞賛を求めた。イエスは、「右手のしたことを左手に知らせるな」と戒める。ある宗教団体が慈善事業に寄付したのを、売名行為だと言う人がいた。たとえ動機が純粋であっても、目立つと、とかく色眼鏡で見られる。「右手のしたことを左手に知らせるな」、善行は人に知らせず、知られずに行い、誉められようなどと思うな。

-マタイ6:3-4「施しをする時は、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる天の父が、あなたに報いてくださる。」

 

  1. 祈る時には

 

・イエス時代の敬虔なユダヤ人は、朝、昼、夕と三度の祈祷をしていた。彼らは祈りの時間が来ると、街角や広場など人通りの多い所で祈った。自分たちの敬虔な信仰を見せつけ、賞賛を得るためである。しかし、賞賛を求めたとたん、純粋な信仰を失う。祈りに偽善はあってはならないとイエスは語られる。

-マタイ6:5「祈る時もあなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、街道や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らはすでに報いを受けている」。

・イエスは「隠れた場所で神と相対して祈れ」と言われる。悪い例として異邦人の祈りが引き合いに出されている。祈りをくどくどとする必要はない。何故ならば「父は願う前から必要なものをご存じ」だからだと語られる。

-マタイ6:6-7「だから、あなたがたが祈る時は、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈る時は、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思いこんでいる。彼らの真似をしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」。

 

3. 主の祈り

 

・イエスは無意味な祈りを指摘したうえで、本当の祈りを教えられた。それが「主の祈り」で、主の祈りは教派を超えて祈られる。キリスト教会はカトリックとプロテスタントに分かれ、プロテスタントではさらに細かく教派が分かれている。信仰の形の違いが多くの教派を生んだが、その中で教派を超えて、この「主の祈り」が共に祈られている。ここに信仰の中核が凝縮されている。

-マタイ6:9-10「だから、こう祈りなさい。『天におられる私たちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように、御心が行われますように、天におけるように地の上にも』」。

・主の祈りは前半に神への三つの祈りがあり、後半に私たちの願いの祈りが配置されている。私たちが通常祈る場合は、自分の必要性を最初に祈る。「どうか病をいやしてください」、「どうか家族が安泰でありますように」、私たちは様々な心労や困窮を抱え、「何とかしてください」と神に訴える。しかし、イエスは最初に神の聖名を崇め、御国の到来を祈るように示される。何故なら、「あなた方の父は願う前から、あなた方に必要なものはご存じなのだ」(6:8)からだ。

・「御名が崇められますように」「「御国が来ますように」「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」の三つの祈りは神の国の到来を願い、天におけるようにこの地上も神の国となりますように、この地上で起こる事のすべてが、神の望んでおられるようになりますようにという祈りである。

・後半の祈り「必要な糧を与えてください」、これは人間にとって必要な食べ物のことだ。「負い目の赦し」は隣人との関係の修復である。隣人の「負い目」を赦し、自分の「負い目」も赦されなければ、生きて行けない。「誘惑に遭わせず、悪者から救って下さい」は明日起こるかもしれない災いからお守り下さいという祈りである。人にとって明日は未知であり、誘惑という試練に何時遭うか分からない。

-マタイ6:11-13「私たちに必要な糧を今日与えてください。私たちの負い目を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を、赦しましたように。私たちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」。

・イエスは「自分の罪の赦しを神に願うならば、まず自分に罪を犯した者の罪を赦さねばならない」と語られる。「赦すことが赦されるための条件である」ことを忘れてはならない。

-マタイ6:14-15「もし、人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなた方の天の父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

 

3.主の祈りを生きる

 

・ゲッセマネでイエスは死を前にして必死に祈られた。マタイは、ゲッセマネの祈りの中に「主の祈り」を取り入れて伝えている。「御心が行われますように」、これこそ主の祈りの中心だとマタイは考えた。

-マタイ26:39「少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた『父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の願いどおりではなく、御心のままに』」。

・主の祈りを唱えることは大事であるが、それ以上にその主の祈りを生きることが求められる。アッシジのフランシスは13世紀イタリアの人で、裕福な商人の息子だったが、戦乱によって人々が殺され、病者は捨てられ、飢餓で死ぬ現実を見て回心し、托鉢修道士となった。「主の祈り」の背景にある現実の悲惨に気づいた時、彼の人生は変えられた。彼は次のような祈りを残している。

-フランシスの祈り「神よ、私をあなたの平和の道具としてお使いください。憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところに赦しを、分裂のあるところに一致を、疑惑のあるところに信仰を、誤っているところに真理を、絶望のあるところに希望を、闇に光を、悲しみのあるところに喜びをもたらす者としてください。慰められるよりは慰めることを、理解されるよりは理解することを、愛されるよりは愛することを、私が求めますように。私たちは、与えるから受け、赦すから赦され、自分を捨てて死に、永遠の命をいただくのですから」。

・このフランシスの祈りが一人の女性の生涯を変えた。マザーテレサである。本名アグネス・ゴンジャ・ホヤジュは、1910年オスマン帝国コソボ州で生まれたが、父ニコラは第一次大戦後のアルバニア独立運動の中で、マザー9歳の時に殺される。マザーは救いを求めて教会に通い続け、フランシスの生涯を描いた本に出合い、フランシスの祈りに感動する「主よ、私を平和の器とならせてください。憎しみがあるところに愛を、争いがあるところに赦しを」。マザーはフランシスのように生きたいと願い、修道女になってインドに行くことを決意した。

・1928年18歳の時、マザーはインド北部コルカタ(カルカッタ)の修道院に配属され、女学校で教師を務める。マザーは教育を通して人びとへの奉仕に打ち込むが、インドに来て18年目、1946年にコルカタ大暴動が起こる。ヒンドゥー教徒とイスラム教徒との対立が激化し、お互いに殺し合う光景をマザーは目にした「通りに転がっている沢山の死体。ある者は突き刺され、ある者は殴り殺され、乾いた血の海の中に考えられないような姿勢で横たわっていた」。今自分に何ができるのか。マザーは修道女となった時の志を自らに問い直す「主よ、私を平和の道具としてください」。1948年マザーに修道院を出て活動を始めた。マザーも「主の祈り」の背景にある悲惨に気づいた時、人生を変えられた。

・私たちは、主の祈りが「私の祈り」ではなく、「私たちの祈り」であることを知っている。戦乱を逃れて難民になった人々が日本に逃れてきても、私たちの国は一切彼らを受け入れない。コロナ禍で職を失い、路頭に迷う人がいて、十分に食べられない子供たちや学費が払えなくて退学を検討している学生たちがいる。その現実の中で、主の祈りを生きることを、神は私たちに求められている。主の祈りがアッシジのフランシスを生み、マザーテレサを生んでいった。私たちもまた、イエスがされたように、「神の御心」を求めて祈り、「私をあなたの平和の道具としてお使いください。与えるから受け、赦すから赦される生を生きさせてください」と決意する。

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