1.復活についての問答
・当時のユダヤ教では、中産階級を代表する律法学者やパリサイ派の人々は、人は死んでも魂が残り、終末の時に復活して、新しい体を与えられると考えていたが、サドカイ派と呼ばれる祭司や富裕層の人々は、死後の命や復活などはないと言っていた。金持ちで豊かな人々は現在に満足し、保守的になり、現実主義的になる。そのサドカイ派の人々が復活がないことを示すため、「レヴィラート婚」についてイエスへ質問した。ユダヤでは、「兄が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の後継ぎをもうけねばならない」(申命記25:5-10)と規定されていた。家系を絶やさないための規定であった。
-マタイ22:23-27「その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた『先生、モ-セは言っています。ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならないと。さて、私たちのところに、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。最後に女も死にました。すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです』」。
・復活問答は、つきつめて言えば、「死後の世界はあるのか」という問題になる。サドカイ派の人々は、死んだ後には何もない、生きている間だけが全てだと考えている。イエスは、この主張に対して、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」と言われた。
-マタイ22:29-30「イエスはお答えになった。『あなたたちは聖書も神の力も知らないから思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ』」。
・イエスは「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになる」と言われた。地上における人間関係が、そのまま天に持ち込まれるわけではない。死後の歩みや復活を、この世の人生の延長として考えるなということだ。私たちは死んだ後を、この世の人生の延長で考えようとするから、「亡くなった人と天国で再会する」と考え勝ちだが、イエスは、それは思い違いだと言われている。
-マタイ22:30-33「死者の復活については、神があなたたちについて言われた言葉を読んだことがないのか。私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であるとあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である』。群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた」。
・「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」とは、出エジプト記で神がモーセに自己を啓示された時に言われた言葉だ。「アブラハム、イサク、ヤコブというあなたたちの先祖の一人一人の名を呼んで、彼らの神として、共に歩んできた私が、今あなたモーセと共に歩む」と言われ、モーセを通して、エジプトで奴隷として苦しむイスラエルの民を救い出し、彼らを約束の地に導きいれると約束された。「アブラハムに為された約束がモーセを通して実現したではないか。アブラハムを愛し、モーセを導いた神が、今私たちを生かして下さるとしたら、分りもしない死後のことを議論するよりも、神に委ねれば良いではないか」とイエスは言われている。
2.私たちはこの問答をどう聞くのか
・神は「死んだ者の神ではなく、生きている者の神」であり、今をどう生きるべきかを求め、「死後のことは神に委ねよ」とイエスは言われる。聖書が唯一語る死後の命は、「イエス・キリストが復活されたのだから、あなた方も復活する」ということだ。その時、身体はどうなるのか。日本では死ねば火葬されるが、欧米の主流は土葬である。彼らは「遺体を焼くと身体の復活を妨げる」という考え方で土葬する。フランスではカトリック信者が多く火葬率は30%と低い。イギリスは異例で火葬率が73%と高いが、プロテスタントが多いためと土地不足のためだ。アメリカもプロテスタントは多いが、広い土地があるため、火葬率は40%と低い。
・パスカルはパンセの中で語る「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、哲学者の神にあらず、イエス・キリストの神、わが神にして汝らの神」。パスカルは物理学者、数学者だが、31歳の時に回心を経験し、その回心体験を述べた言葉が、「哲学者の神にあらず、イエス・キリストの神」と言う言葉だ。彼は数学者だから物事を理性で突き詰めて考えていくが、神の存在はいくら考えてもわからない、だから「哲学者の神ではない」。彼は言う「人間は自分が経験した事しか理解できない」。それに気づいた時、彼はかってアブラハムやイサムを導き、イエスを死からよみがえらせた方が、今自分を生かして下さる「わが神」であるとの秘儀を体験した。私たちは、明日が来ると信じるゆえに、今日を生きることができるが、いつか「明日」が来ない「今日」が来る。その時、自分の命を神に委ねることのできる人は幸せだ。その幸せは100歳まで長生きすることよりも、この世で栄誉を極めることよりも価値がある。世と世の出来事は過ぎ去る。私たちはキリストの復活を信じる故に、自分の命を最後には神に委ねることができる。過ぎ去らない命を神からいただいた。それだけで私たちの人生は十分ではないか。
3.最も重要な掟
・サドカイ派がイエスに言い込められたと聞いたファリサイ派の律法学者が、イエスを試そうと近付いた。彼らは「律法の中でどの掟が重要か」とイエスに質問した。当時ユダヤの律法はなすべき命令が248、禁止命令が365、合計613もあり、「どれが最も大事か」に答えるのは難しいと思われた。
-マタイ22:34-36「ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込めたと聞き、集まって来た。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた『先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか』」。
・イエスは第一の教えとして「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽して、あなたの神を愛しなさい。」(申命記4:6)をあげ、続いて第二の教えとして「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」(レビ記19:18b)をあげた。
-マタイ22:37-40「イエスは言われた。『心を尽し、精神を尽し、思いを尽して、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。隣人を自分と同じように愛しなさい。律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている』」。
・このイエスの教えはパウロに継承されている。キリスト教徒にとって隣人を愛する事こそ信仰の中核である。ある注解者は述べる「私たちが自分自身に寛容であり、時間を割き、関心を持ち、自分自身のために言い訳をし、深く自分の幸せを願っている。それと同じ仕方で隣人にもそのような態度を取りなさい」(L.ウィリアムソン、マルコ福音書注解、p365)。
-ローマ13:8-10「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」。
4.善きサマリア人の譬えを同時に読む
・並行記事のルカ10章ではこの問答に続いて「良きサマリア人の喩え」が語られている。強盗に襲われた旅人を律法に精通しているはずの祭司やレビ人が関り合いになるのを嫌がり助けなかったが、異邦人であるサマリア人だけが助けたという譬えだ。譬えを通してイエスは、「聞くだけではなく、行う」ことの大事さを教えられた。
-ルカ10:36-37「『さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか』。
律法の専門家は言った。『その人を助けた人です』。そこで、イエスは言われた『行って、あなたも同じようにしなさい』」。
・自然のままの私たちは、本当の意味では人を愛することは出来ない。しかし、私たちがかつて傷つき倒れていた時に、イエスが通りかかり、私の傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで介抱してくれ、イエスはその行為のために強盗に襲われて死なれた。イエスが命をかけて私を救ってくださった体験をした時、私たちは「良きサマリア人とはイエスなのだ。イエスは、危険を顧みず私を介抱してくれた」ことを知る。そして、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」とは、「イエスが私を愛したように、あなたも隣人を愛しなさい」という意味であることがわかってくる。
・ルカ福音書のイエスは律法学者に言われる「聞くだけではなく行いなさい」(ルカ10:28)。「あなたの目の前にいる人はみな私なのだ。誰かが引きこもって苦しんでいる時、私が苦しんでいるのだ。母親が子供の発育を心配して悩んでいる時、私が悩んでいるのだ。私はあなたの助けを必要としている」。私たちの目の前にいる一人一人こそ、イエスなのだとして受け入れる時、彼らの問題を私自身の問題とした時、私たちは神の国に入って行く。信仰は応答を、応答は行為を伴う。
-マタイ7:12「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」。