1.婚宴の喩え
・婚宴の喩えはマタイとルカにあり、イエスの語録伝承(Q資料)によるもの。元々は、イエスの教えを聞きながら、日常の多忙さの中でその教えを無視した人々への警告の喩えだったとされる。オリジナルはルカ福音書に近いとされる。
-ルカ 14:16-21「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい』」。
・聖書学者の大貫隆はルカの譬えを解説する「盛大な宴会の喩えでは、主人が宴席(神の国の食事)に招待しようとしても、人々は多忙を理由に断る。日常的・連続的時間、クロノスの根強さがここにある。仕事に追われて宴会どころではない。神の国、そんな話を聞いている暇はさらにない。イエスの『今(カイロス)』が生活者の『クロノス』と衝突し、拒絶される」(大貫隆『イエスという経験』)。
・この喩えをマタイは、イエスを受け入れなかったユダヤ人の不信の罪を語る物語と理解した。招待を受けながら、理由を並べ、婚宴への出席を拒んだ客はユダヤ人である。彼らは、神に選ばれ、生かされてきたにもかかわらず、神の恩寵を忘れ、イエスの招きを拒絶した。
-マタイ22:1-5「イエスは、また、喩えを用いて語られた。『天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。「招いておいた人々にこう言いなさい。『食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴にお出でください』。しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人な商売に出かけた」。
・さらにマタイは独自の特殊記事を挿入する「ある者たちは婚宴の知らせをした王の使いを殺してしまった。そのため、王は怒り、軍隊を派遣して彼らを殺し、町を焼き払った」。この部分は紀元70年のローマ軍によるエルサレム破壊を示唆している。ユダヤ人は神から遣わされたイエスを受け入れずに、十字架に架けて殺してしまった、その報いがエルサレムの崩壊だとマタイは理解している。
-マタイ22:6-7「『また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った』」。
・王は婚宴を断った客の代わりに、町の大通りから婚宴客を集めてくるよう家来に命じた。並行のルカは「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい」(14:21)と記している。王は客の資格など問わない決心をした。神に選ばれた民の無礼と不信仰から、神の招きが異邦人へ向けられことを示す。「見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」と家来に命じたのは、神によるユダヤ民族を超えた異邦人への招きが始まったことを指している。
-マタイ22:8-10「そして家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々はふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい』。そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった」。
2.招かれる人は多いが選ばれる人は少ない
・王が婚宴会場を見回すと礼服を着ていない客がいた。王は礼服を着ていない理由を尋ねたが、彼は答えられなかった。王は側近に命じて、彼の手足を縛らせ、放り出させた。彼は礼服を着て来なかったことを悔い、暗闇で泣きわめいて悔しがったが、もう手遅れだった。
-マタイ22:11-14「王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『どうして礼服を着ないでここに入って来たのか。』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この者の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう』。招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」。
・礼服着用が、異邦人伝道における喩えとするなら、礼服は洗礼によりキリストを着ることを示すのであろう。神の国への招きはすべての人に向けられている。しかし来た人すべてが選ばれるわけではない。「礼服を着る」、キリストを生きることが求められている。
-ガラテヤ3:26-27「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」。
・神の招きを受けて求道し、信徒の一人に迎えられたとしても、後に信仰を捨てる人が多いという現実はマタイの譬え(招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない)の真実性を納得させる。また「今に忙殺され、将来を考えようとしない」現代人の多くは神の招きを断るが、人間存在の根底的問題、「死」に直面した時、彼らは変えられる。1985年8月12日日航機が群馬県上野村に墜落し、520名の方々が亡くなったが、遺族は35年後の今も慰霊登山を続ける。「“カイロス”が生活者の“クロノス”と衝突し、拒絶される」という日常の出来事が、親しい者の死を通して、「“カイロス”(真実の時)の意味を求め続ける」時に変わっていくことも事実である。だから私たちは、御言葉が聞かれても聞かれなくても伝道する。
3.神のものは神へ
・ファリサイ派とヘロデ派が共同で、イエスに納税論争を持ちかけた。植民地であるユダヤはロ-マ皇帝に税を納めることを義務づけられていた。それは神を信じないロ-マ人の支配に服することであり、屈辱的な出来事として、ユダヤ教徒の間に強い反対があった。彼らはイエスを窮地に追い込もうとして、皇帝に税を納めるのは、「律法に適うか、適わないか」と問いかけてきた。
-マタイ22:15-17「それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。『先生、私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であるのを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか。お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか』」。
・イエスは彼らに、当時流通していたローマの貨幣であるデナリオン銀貨を出させ、銀貨の肖像と銘は誰かと尋ねた。彼らが「ローマ皇帝です」と答えると、イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答えられた。ユダヤがローマの政治的・経済的支配下にあるならばそれに従えばよいとイエスは言われた。
-マタイ22:18-22「イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。『偽善者たち、なぜ私を試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい』。彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは『これはだれの肖像と銘か』と言われた。彼らは『皇帝のものです』と言った。すると、イエスは言われた。『では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい』。彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った」。
・皇帝の支配下にあるならば皇帝のものは皇帝に返すのが当然だとイエスは言われ(「皇帝のものは皇帝に返しなさい」)。しかし「神のものは神に返せ」と付け加えられた。信仰の本質にかかわる出来事(神のもの)と本質ではない出来事(皇帝のもの)を区別し、本質でない出来事については世に従いなさいとイエスは言われた。初代教会はこのイエスの言葉を基礎に、税や貢物を国家に納めるべきかを議論し、市民としての義務を果たせと教えた。
-ローマ13:1-7「人は皆、上に立つ権威に従うべきです・・・すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい」。
・しかし同時に「世に倣ってはいけない・・・何が神の御心であり、何が良いことで、神に喜ばれ、また完全であるかをわきまえなさい」(12:2)とパウロは語る。熱狂的に反ローマを推進したファリサイ人らは紀元70年のユダヤ戦争により滅んで行くが、教会は生き残った。その間の経緯を聖書学者は説明する。
-須藤伊知郎・新約聖書解釈の手引きから「マタイの共同体はイエスの語録資料(Q文書)を携えて紀元後30-70年ごろにイスラエル本国でユダヤ人伝道を行っていた人々である。この人々は66-70年に起こった第一次ユダヤ戦争の際、非戦の立場を貫いたために、同胞のユダヤ人たちから敵国ローマの協力者とみなされて迫害され、そこでの宣教活動に挫折して、失意のうちに戦争難民となり、北方のシリアに逃れていったものと思われる。この人々がシリアに入ってマルコ福音書を所有していたグループと出会い、新しい共同体を創った。それがマタイの教会で、彼はこの教会のためにマルコ福音書とQ文書を組みあわせた新しい福音書を編集した」。