江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2021年10月20日祈祷会(マタイ21:1-11、イエスのエルサレム入城~驢馬にのって)

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1.イエスのエルサレム入城(驢馬の背に乗って)

 

・エルサレムを目指して旅を続けて来たイエス一行は、エルサレム郊外のオリーブ山のふもとまで進んで来られた。近くにベタニヤ村がある(マルコ11:1、マタイではベトファゲ)。イエスは二人の弟子に、「向こうの村へ行って驢馬を借りて来なさい」と言われた。ベタニヤ村には、イエスと親しかったマリアとマルタたちが住んでおり、イエスの為に驢馬を用立ててくれる約束になっていた。

-マタイ21:1-3「一行がエルサレムに近づいて、オリ-ブ山沿いのべトファゲの来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた『向うの村に行きなさい。するとすぐ、驢馬がつないであり、一緒に子驢馬のいるのが見つかる。それをほどいて、私のところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら「主がお入用なのです」と言いなさい。すぐ渡してくれる』」。

・イエスはエルサレム入城の時に、驢馬の背に乗られたが、マタイはそれが聖書の預言の成就であったとして、ゼカリヤ書を引用する。

-マタイ21:4-5「それは預言者を通して言われていたことが実現するためであった『シオンの娘に告げよ。「見よ、お前の王がお前のところにお出でになる、柔和な方で、驢馬に乗り、荷を負う驢馬の子、子驢馬に乗って」』」。

・イエスは驢馬に乗って、エルサレムに入られたが、それは、イエスが、ゼカリヤ書に象徴される「柔和の王」である事を人々に示されるためであった。「私はメシアであり、あなたがたを救う為に、都に来た。しかし、あなたがたが期待するように軍馬に乗ってではなく、驢馬の子に乗って来た」という、イエスの気持ちが、驢馬に乗るという行為に示されている。

-ゼカリヤ9:9「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、驢馬に乗って来る、雌驢馬の子である驢馬に乗って」。

・エルサレムでは、高名な預言者が来るとして、人々が集まって来た。不思議な力で病いを治し、悪霊を追い出されるイエスの評判は都まで伝わっていた。都の人々は期待を持ってイエスを歓迎した。

-マタイ21:6-9「弟子たちは行って、イエスが命じられた通りにし、驢馬と子驢馬を引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は前を行く者も後に従う者も叫んだ。『ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ』」。

・「あなたがメシアであれば、このイスラエルから占領者ローマを追い出し、再びダビデ王国の栄光を取り戻して下さい」と群衆は期待して叫ぶ。その声の中を、イエスは無言で、驢馬の背に揺られて進んで行かれた。驢馬は古代の王の乗りものであったが、ソロモン時代以降、次第に馬が王の象徴として用いられるようになる。しかし預言者たちは、武力と権力の象徴となった馬は忌避した。

-詩編147:10-11「主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく、人の足の速さを望まれるのでもない。主が望まれるのは主を畏れる人、主を待ち望む人」。

・「新約聖書1日1章」を書いた榎本保郎牧師は、この箇所に基づき、自分を「ちいろば」(子驢馬)と称した。イエスを乗せた子驢馬のように、イエスの福音を運びたいと願ったからである

-三浦綾子・ちいろば先生物語から「エルサレムに入城するイエス様を乗せた、小さな子驢馬のようになりたい。『主の用なり』と言われたら、たとえ自分に力が無くとも、どこへでも出かけて行こう。敗戦後、満州から帰国した榎本保郎は、挫折を試練に変えて立ち直り、神の道への献身をこのように決意する」。

 

2.歓呼してイエスを迎える群衆

 

・当時ユダヤを支配していたローマ総督は、重要な祭日には、滞在するカイザリアから、戦車や軍馬を連ねてエルサレムに入城した。エルサレムにはローマ兵が常駐するアントニア要塞があり、警備軍を増強し、治安維持を強化するためであった。過越祭においては、全国から多くの巡礼者が集まってエルサレムの人口は十倍以上になり、国民的な宗教感情が高まり、征服者ローマに対する敵意が暴動となりかねなかった。ローマ軍はカイザリアから、すなわち西から、戦車や軍馬を連ねて、エルサレムに入る。それに対して、イエスは、オリーブ山から、東から、数人の弟子たちを従えて、「驢馬に乗って」入城された。イエスのエルサレム入城は「軍事力や権力」の誇示ではなく、「謙遜と非暴力」の表現である。イエスは行為を通して人々に語られる「馬は人を支配し、従わせるための乗り物だ。しかし、私は支配するためではなく、仕えるために来た。あなたがたに本当に必要なものは戦いで勝利を勝ち取ることではなく、和解だ。人間同士、国同士の和解に先立って、まず神との和解が必要だ。しかし、あなたがたの罪がその和解を妨げている。だから私はあなた方の罪を背負うために来た」と。

・驢馬は風采の上がらない動物で、戦いの役には立たない。しかし、柔和で忍耐強く、人間の荷を黙って背負う。人々が求めていたのは、「栄光に輝くメシア」、軍馬に乗り、大勢の軍勢を従え、敵から解放し、幸いをもたらしてくれる「強いメシア」であり、驢馬に乗る「柔和なメシア」ではなかった。人々は、イエスが自分たちの求めていたメシアではないことがわかると、一転して「イエスを十字架につけろ」と叫び始め、それが金曜日の受難へと続く。「柔和の王」を拒否したエルサレムの人々は、やがてローマに対して武力闘争を始め(紀元66年)、その結果、エルサレムはローマ軍に占領され、焼かれ、神殿も崩壊する。

-マタイ26:52「イエスは言われた。『剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」。

 

  1. 柔和なイエスに従っていく

 

・イエスが「馬ではなく、驢馬に乗って」エルサレムに入城されたことは、深い意味を持っている。軍馬に頼る平和はないことを示すためだ。

-イザヤ2:4「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」。

・人類は有史以来、戦争を繰り返してきた。それは人間の中にある罪のためであり、その罪を贖い、殺し合いを止めさせ、真の平和を打ち立てるのは人間には不可能ゆえに、イザヤは「神の平和を待ち望む」。イザヤ書2章4節はニューヨークの国連ビルの土台石に刻み込まれている。二度の世界大戦を通して、世界は苦しみ、血を流した。「もう、戦争は止めよう、武器を捨てよう。剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌としよう」と言う理想を掲げて、国連は設立された。しかし、戦後世界でも戦火は続いている。

・イザヤが生きた紀元前700年ごろ、中東ではアッシリアが世界帝国の道を歩み、シリアが占領され、北イスラエルは滅ぼされ、圧倒的な軍馬がユダ王国に迫った。人々はアッシリアに対抗するためにエジプトの援助を求めるが、イザヤは反対する。ユダ王国はアッシリア軍によって国土の大半を焼かれ、占領され、かろうじてエルサレムだけが残された。イザヤの平和預言は戦争に負け、国土が焼け野原になった状況の中で歌われた。その状況は1945年の日本に酷似している。日本は戦争に負け、国土は焼け野原になった。もう兵器はいらない。砲弾や武器を作るために兵器工場に集められた鉄が鋳られ、釜や鍬が作られた。そして新しい憲法が発布され、新憲法は9条1項で「戦争の放棄」を宣言し、9条2項で「いかなる軍隊も武力も保持しない」と宣言した。世界で初めての平和憲法である。イザヤが夢見た「戦争の放棄」という出来事が現代日本で起こった。

・ユダの国はアッシリアが強くなるとアッシリアになびき、エジプトが強くなるとエジプトになびいた。その結果、国は滅んだ。イザヤの信仰は単なる理想ではなく、世界情勢の現実認識の上に立てられたものだった。このイザヤの心を具体化されたのがイエスである。

-マタイ5:5「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」。

・「柔和な人々」とは、腕力や権力、経済力や軍事力を使って無理やり人に言うことを聞かせようとしない。現実主義者は、「この世界では軍馬の思想のみが有効な行き方だ」と語るが、歴史上、軍馬で平和が達成されたことはない。軍馬の思想を極限まで推し進めた強国アッシリアはバビロンに滅ぼされ、バビロンもペルシャに、ペルシャもギリシャに、ギリシャもローマに滅ぼされた。柔和なイエスがこの世界史の中に誕生されたということは、新しい世界が始まったということであり、キリスト者はこの視点に立って国の安全保障を考える必要がある。

・イエスが驢馬を調達されたベタニヤは、「神により頼む、貧しい者の家」と言う意味である。この村でラザロは死からよみがえり(ヨハネ11:44)、マリアはイエスにナルドの香油を奉げ(マタイ25:12)、イエスはこの村から昇天された(ルカ24:50)。私たちは教会をベタニヤ村のような共同体にしたいと願う。驢馬のように、忍耐強く、愚痴を言わずに、黙々と他者の荷を負っていく共同体だ。「柔和」とはギリシャ語「プラウース」、単なる謙遜やおとなしさではなく、「抑圧にめげない」姿勢を示す。「右のほほを打たれたら左のほほを出す。しかし決して下は向かない」、「罵られても罵り返さない。しかし決して屈しない」という強さを持った言葉だ。どのような中にあっても抑圧に負けず、雄々しく生きる生き方こそ「柔和な」、私たちの目指すべき生き方ではないか。

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