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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2021年1月13日祈祷会(マタイによる福音書5:5-12、山上の説教後半)

投稿日:2021年1月12日 更新日:

 

 

1.山上の祝福後半

 

-マタイ5:5「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。5:8 心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。5:9 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

 

・第三の言葉「柔和な人々は幸いである」はE.シュバイツァー訳では「謙遜な人たちは幸福だ」とされる。この謙遜とは道徳的なものではなく、「権力がない者、取るに足りない者」との意味であろう。

-マタイ5:5「柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。」

・第四の言葉「義に飢え渇く人々は幸いである」は、ルカでは「飢えている人は幸福だ」と言われる。何故ならば彼らには「満腹が」約束される。マタイは「飢える」を「義に飢える」とした。

-マタイ5:6「義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる。」

・第五の言葉は「憐れみ」である。憐れみはマタイにとってはイエスの宣教の中心である。

-マタイ5:7「憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受ける。」

・憐れむ者だけが、憐れみを受けられる。これがイエスの一貫した教えである。

-マタイ6:14-15「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

・第六の言葉は「心の清い人々は幸い」である。心が清いとは、旧約では「悪を目論まず、その隣人を欺かない」とも描写される。マタイでは「神に向けられた心」「信仰」と訳される。それは祭儀的に作り出される外的な清さとは対立する。

-マタイ5:8「心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る。」

・第七の言葉「平和を実現する人々は幸いである」。ヘブル語の平和は「シャロ-ム」である。シャロ-ムで祝福されるのは「平和を作りだす人々」であって、「平和を愛するだけの人々」ではない。平和を作り出す人々は神の子になると約束される。

-マタイ5:9「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」

・第八の祝福は「義のために迫害される人々は幸いである」。義とは神の前での正しさである。信仰を貫き信仰のゆえに迫害された人々は、天国に迎え入れられる。詩編は繰り返し、「義人の受難」について述べる。

-マタイ5:10「義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」

・最後の祝福は明らかにイエスの言葉ではなく、マタイの付加であろう。イエスの時代には弟子たちに対する迫害はなかった。しかし、紀元80年頃のマタイの教会は、「キリストの名のゆえに、ののしられ、迫害された」。マタイは自分の教会の人びとへの慰めの言葉として5:11-12を付加した。

-マタイ5:11-12「私のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

 

2.山上の祝福を聖書学はどう読むか

 

・ルカ福音書6章(平野の説教)においては「貧しい人々は幸いである」と言われている。しかし並行のマタイ福音書5章(山上の説教)においては、「心の貧しい人々は幸いである」として、心が付加されている。同じ様にルカ「飢えている人々」が、マタイにおいては「義に飢え渇くもの」とされる。更にルカ「泣く者」が、マタイでは「悲しむ者」となっている。ルカが原意に近く、マタイは大幅に編集していると言うのが通説である。仮にそうだとすれば何故、ルカは伝承を部分修正に留め、マタイはそれを大幅に修正したのだろうか。また、後代の教会は、マタイとルカの違いをどのように理解したのだろうか。

・E.トレルチは「キリスト教社会哲学の諸時代」の中で、山上の説教の解釈史に言及している。

-「キリスト教は古代末期の宗教運動であり、貧者に向かって語られた。そこにおいては救済の受容を可能にする貧困が祝福され、富は信仰を枯らす茨として排斥されている。文字通り、貧しきことは幸いなのであり、富める者は天国に入ることは出来ないのである。そこには貧しい者が物質的に豊かになることを求める運動は何もなかった。キリスト教は社会運動ではなかったため、社会倫理を持たない。その後の教会はストア哲学の自然法から社会哲学を学び、世俗的には自然法の妥協的道徳を、心情的には山上の説教に示される絶対的自然法の厳格な道徳の適用の二重倫理を作り上げ、後者は聖職者のみが守るべきものとした」。

-「教会の世俗化と共に、山上の説教こそキリスト者が守るべき神の国の倫理であると考える者は分派を形成し、ある者たちは修道院の中で、別の者たちはモンタヌス派やカタリ派等の異端運動として教会型と並列的に成長していく。この分派が宗教改革を生むが、体制派となったルター派やカルヴァン派はやがて分派から教会型に転換し、再洗礼派等が新たな分派として成長していく」。

・J.エレミアスは「新約聖書の中心的使信」の中で山上の説教を取り上げている。彼は山上の説教には三つの解釈の流れがあると言う。

-「一つは完全主義的解釈で、山上の説教はイエスが弟子たちに守るように要求した新しい倫理とする考え方である。二つ目はルター派の唱える実行不可能説で、イエスは聴衆に、彼等が自分の力では神の命令を成就できないことを知らしめて信仰に導かれるために語られたと言うもの。三つ目はA.シュバイッアーの中間倫理説で、イエスの説教は終末を前にした緊急律法であり、持続的な倫理ではないとする。エレミアスは、これらの解釈はいずれも説教を律法とみなし、イエスを律法教師に、あるいは悔改めの説教者に、さらには黙示文学者にするが、いずれも聖書が語らないことを聖書の中に読み込んでいると批判する。聖書が語るのは「あなた方は赦されており、神の国に入れられているのだから、それに相応しく生きよ」との福音であり、倫理ではなく生きられた信仰こそ求められていると言う」。

・E.シュバイッアーもマタイ福音書注解の中で山上の説教の解釈史を取り上げている。彼はカトリックやルター、E.トゥルナイゼン、A.シュバイッアーの解釈を批判しながら次のように言う。「イエスは何もプログラムを用意されなかった。プログラムとは違反すれば罰すると言う制度のもとでの法律によってしか実施できないからである。イエスが求められるのは、強制によらないで信仰の自由から出発して行動する人間の新しくされた心である。信仰から出発した愛は決してプログラムにはなりえないのだと言うことを誤解のない仕方で確保しなければならない」。

 

3.今、改めて、イエスの使信に聞く。

 

・イエスの言葉は「貧しい者、飢えている者、泣いている者は幸いである」と言うのが原意に近い。これをマタイのように緩和せずに、またルカのように強調せずに聞いた時、何が求められているのか。福音書によれば、イエスの宣教に積極的に応答したのは、取税人や遊女、異邦人等の社会的に疎外されていた人々であり、反発したのはパリサイ人やサドカイ人等の支配階級だった。満足している者は神を求めず、満たされていない者は求める。求める者には命が与えられ、求めない者には与えられないとしたら、今、満たされていないもの(貧しい者、飢えている者、泣いている者)が祝福されるのは当然ではないか。

・ルカとマタイの時代は、イエスの宣教から50年が過ぎ、第一世代の弟子たちのように、全てを捨ててイエスに従うのではなく、定住して生活している。経済的にも安定し、明日のパンがない状況ではなく、富が彼らの信仰を揺るがし始めている。このような中で、ルカは貧しさを強調するために四つの祝福に四つの災い(富んでいるものは災い等)を付加し、マタイは時代の変化に応じた修正(定住する人々に放浪の伝道生活を求めることは出来ないため、心の貧しさに変えた)したと思える。今、世界の1割が飢えている中で、食べ物に飽きている豊かな国の住人である私たちは、ある意味でルカやマタイの教会以上に富が信仰を揺るがしている。マタイとルカが何故伝えられた伝承を変えたのかを、我々の問題として捉える必要がある。

・モルトマンの「希望の倫理学」を翻訳した福嶋揚は語る「死ねばすべてが無に帰すと考える人間にとって、天に宝を積むことは無意味で抽象的なことである。天の富に関心を持たない生は、地上における富の最大化を目指し、地上だけで完結しようとする。そのような生の最も支配的な形態は資本主義である・・・資本主義の破局的な運動を止めることは難しい。(その中で)キリスト教的終末論が地上の富を最大化する生とは異なる生の可能性を開く一つの思想である・・・(聖書の物語は)地上の生の意味を、自己の富を最大化することではなく、社会の周辺へと追われ苦難の中にある人々を友にすることにある」(福嶋揚、終末論と資本主義、福音と世界2014年12月号)。

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