1.魂への配慮
・ヨハネ第三の手紙はガイオという家の集会の指導者に宛てられた牧会書簡である。ガイオはヨハネから薫陶を受けた弟子で、小アジアの地方集会(伝承ではペルガモン)の指導者であったと思われる。紀元1世紀ごろの教会は各地に点在する家の集会の集合体であり、各地の有力信徒が自己の住宅を会堂として提供し、家庭集会がいくつか集まって共同体を形成するような形であったと考えられている。ヨハネの共同体はエフェソの母教会を中心に各地に複数の家の集会から構成され、母教会から派遣された巡回伝道者が各集会を定期的に訪問する形で指導していたようだ。ヨハネはガイオの魂の平安を最初に祈る。
-第三ヨハネ1:1-2「長老の私から、愛するガイオへ。私は、あなたを真に愛しています。愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています」。
・エフェソにあったヨハネの教会では、小アジアの諸教会に巡回伝道者を派遣して、指導していた。その巡回伝道者がエフェソに帰り、ガイオの教会で歓待を受けたことを報告し、そのお礼を兼ねて、この書状が出された。
-第三ヨハネ1:5-6「愛する者よ、あなたは、兄弟たち、それも、よそから来た人たちのために誠意をもって尽くしています。彼らは教会であなたの愛を証ししました。どうか、神に喜ばれるように、彼らを送り出してください」。
・巡回伝道者たちはイエスが言われたように、「何も持たずに、旅をした」(ルカ9:1-5)。そのため、彼らを経済的に支援することを、各地の集会は求められた。
-第三ヨハネ1:7-8「この人たちは、御名のために旅に出た人で、異邦人からは何ももらっていません。だから、私たちはこのような人たちを助けるべきです。そうすれば、真理のために共に働く者となるのです」。
・今日でも牧師になる者は、「何も持たない」との覚悟が必要であるとされる。牧師が自己実現を目指し、生活の安定を求めた時、欲が出る。牧師の基本は仕えることであり、仕えられることではなく、ヨハネ10章は牧会の基本だ。しかし現代社会においては実行が難しい。
-ヨハネ10:11-12「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる」。
・牧師の働きに対して報酬を与えられることは当然である。主は信徒の献金を通して牧者を養われる。ただ近年、西南学院大学神学部への入学者が激減している(19年度、20年度の入学者はなし)。牧師になっても家族を養えない現実が背景にある。パウロのような自給伝道者が求められている。
-第一コリント9:14「主は、福音を宣べ伝える人たちには、福音によって生活の資を得るようにと指示されました」。
・牧者は信徒の魂を養う。牧会とは魂への配慮だ。ヨハネはガイオが信仰にひたすらに歩むことを、我がことのように喜ぶ。
-第三ヨハネ1:2-4「兄弟たちが来ては、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、私は非常に喜んでいます。実際、あなたは真理に歩んでいるのです。自分の子供たちが真理に歩んでいると聞くほど、うれしいことはありません」。
2.牧者を受け入れない信徒たち
・しかし、全ての人がガイオの集会のように、巡回伝道者を受け入れたわけではない。別の集会では、自分たちは自分たちでやっていくとして、エフェソ教会からの伝道者受け入れを拒否したようだ。
-第三ヨハネ1:9-10「私は教会に少しばかり書き送りました。ところが、指導者になりたがっているディオトレフェスは、私たちを受け入れません。だから、そちらに行ったとき、彼のしていることを指摘しようと思います。彼は、悪意に満ちた言葉で私たちをそしるばかりか、兄弟たちを受け入れず、受け入れようとする人たちの邪魔をし、教会から追い出しています」。
・ガイオの集会やディオトレフェスの主催する集会はベルガモンにあったと思われる。ベルガモンは人口20万人を擁する当時の大都市だった。そのディオトレフェスの集会ではエフェソ教会からの指導を喜ばない信徒たちがいたことが推測される。ヨハネの手紙とほぼ同じ時代のヨハネ黙示録では、ベルガモン集会の中に異端の動きがあったことを伝える。
ヨハネ黙示録2:12-16「ペルガモンにある教会の天使にこう書き送れ・・・私は、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかし、あなたは私の名をしっかり守って、私の忠実な証人アンティパスが、サタンの住むあなたがたの所で殺された時でさえ、私に対する信仰を捨てなかった。しかし・・・あなたのところには、バラムの教えを奉ずる者がいる・・・彼らに偶像に献げた肉を食べさせ、みだらなことをさせるためだった。同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉ずる者たちがいる。だから、悔い改めよ。さもなければ、すぐにあなたのところへ行って、私の口の剣でその者どもと戦おう」。
・ペルガモンにはサタンの王座(ゼウス大神殿)があり、皇帝礼拝が盛んで、逆らう者は迫害されていた。迫害があれば当然棄教する人も出てくる。バラムの教え=偶像礼拝とは皇帝礼拝に従う者も出てきたことを指している。またニコライ派の教えに傾倒する者も出て来たとあるが、おそらくは霊的熱狂主義の一派、イエスがキリストであることを認めず、神の子の受肉や十字架の贖いを信じない者たち、つまりグノーシス派の異端であったと思われ、ディオトレフェスの集会ではその傾向が強かったと思われる。
3.第三ヨハネの黙想
・信仰は個人ではなく教会共同体の中ではぐくまれる。イエスは言われた「あなたがたは互いに愛し合いなさい。愛し合うことによって私の弟子であることを証しなさい」と。教会を離れた信仰は死ぬ。
-ヨハネ15:5-6「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。・・・私につながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」。
・教会もまた、他の教会との連帯の中にあってこそ、独善に陥らない。見える教会が集まって、見えない教会=キリストの体を形成する。教会は孤立化し、閉鎖的になってはいけない。
―第一コリント12:12「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である」。
・バプテストの「各個教会主義」は優れた理念であるが、同時に教会が孤立化し、閉鎖的になる危険性を持つ。バプテストの各教会が他と連帯するのも、キリストの体を形成するためだ。ディオトレフェスはそれを忘れていた。
-第三ヨハネ1:11「愛する者よ、悪いことではなく、善いことを見倣ってください。善を行う者は神に属する人であり、悪を行う者は、神を見たことのない人です」。
・ヨハネは手紙を書き送った後に、近いうちに訪問する旨を伝える。牧会は顔と顔をあわせて為される。
-第三ヨハネ1:13-14「あなたに書くことはまだいろいろありますが、インクとペンで書こうとは思いません。それよりも、近いうちにお目にかかって親しく話し合いたいものです」。