1.試練と誘惑を区別しなさい
・ヤコブ書は二世紀の初めに書かれた、イエスの兄弟ヤコブの名を借りた勧告の文書である。宛先は「離散している十二部族の人たち」と記されており、「十二部族」という伝統的な呼称を用いてキリスト者一般に送られたものと考えられている。内容的には手紙ではなく、教会生活の実践についての訓告集である。
-ヤコブ1:1「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします」。
・最初にヤコブは、「信仰と智恵」について語る。外部から来る試練に勝つためには信仰と知恵が必要だと述べる。
-ヤコブ1:2-4「私の兄弟たち、いろいろな試練に出会う時は、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」。
・試練と誘惑の中で信仰生活を送るには知恵が必要だ。ヤコブは知恵を与えてくるように祈りなさいと勧告する。
-ヤコブ1:5「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます」。
・この智恵はギリシャ語の「ソフィア」、それを現代の言葉に言い換えたのがアメリカの神学者ラインホルド・ニーバーである。彼は、「物事を洞察し、識別することの出来る知恵を与えてくれるように」祈る。
-ニーバーの祈り「変えることの出来るものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることの出来ないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることの出来るものと、変えることの出来ないものとを、識別する知恵を与えたまえ」
・次にヤコブが語るのは「富と貧困」の問題だ。ヤコブは「富のはかなさを知りなさい。祝福されているのは貧しい者であり、富んでいる者は祝福の外にあることを知りなさい」と語る。「貧しい者は幸いだ」と語られたイエスの言葉がここに反響している。
-ヤコブ1:9-11「貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです。日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます。同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消えうせるのです」。
・三番目に、ヤコブは試練と誘惑について語る。試練は外側から人を襲うが、それは神から与えられる鍛錬であり、忍耐を通して信仰を成長させていく。他方、誘惑は、人間の心の中から、自身の罪の思いから起こり、それは人を破壊する。サタンは人の心に住む。
-ヤコブ1:12-15「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。誘惑に遭う時、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」。
2.聞くことと行うこと
・ヤコブは信仰の実践としての行為を求める。その基本は忍耐強く聞くことである。「聞くに早く、話すに遅くありなさい」と彼は語る。「聞くに早く、話すに遅く」、現代でもカウンセリングの基本とされる。
-ヤコブ1:19-20「私の愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです」。*参照:「カウンセリングの立場から見たヨブ記」
・御言葉を受け入れ、それを実践しなさい。御言葉は生活の中で行ってこそ力になりうる。
-ヤコブ1:21-22「だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」。
・信仰は人を行為に駆り立てる。「行いのない信仰は人を救うことが出来ない」とするのがヤコブ書の立場であり、そのため「信仰のみ」を唱えたルターは本書を「わらの書簡」と呼んだ。
-ヤコブ2:14-17「私の兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」。
・しかし信仰は行為を伴うことも事実である。「神を愛するとは隣人を愛すことであり、困っている人に手を差し出していくことだ」という主張は、聖書全編を貫く。
-第一ヨハネ3:17-18「世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」。
・信仰が生活化された時、それは「自分に対しては聖化へ、他者に対しては救済へ」と向かっていく。
-ヤコブ1:25-27「自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります・・・孤児や、やもめが困っている時に世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です」。
・律法が人を救うのではない。しかし、信仰に基づく愛は律法を完成させる。
-ローマ13:8-10「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」。
3.ヤコブ1章の黙想(試練と誘惑「2016年10月30日説教」から)
・ヤコブは信徒たちへ「試練と誘惑を区別する」ように語ります。「試練」は神から与えられる鍛錬であり、忍耐を通して信仰を成長させていく恵みです。ヤコブは語ります「私の兄弟たち、いろいろな試練に出会う時は、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」(1:2-4)。
・他方、「誘惑」は、人間の心の中から、罪の思いが起こり、それは人を破壊します。ヤコブは語ります「神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」(1:13-15)。試練は「ペイラスモス」という名詞形で、誘惑は「ペイラゾー」という動詞形で表現されていますが、もともとは同じ言葉です。「一つの出来事が受け止め方によって、試練にも誘惑にもなる」とヤコブは語ります。概説的に言えば、試練は外側から人を襲うが、それは神から与えられる鍛錬であり、忍耐を通して信仰を成長させていく。他方、誘惑は、人間の心の中から、自身の罪の思いから起こり、それは人を破壊する。サタンは人の心に住むのです。
・彼は誘惑の中で最大のものは地上の富だと考えています。イエスが語られたように「富のあるところにあなた方の心もある」(ルカ12:24)、人は富を持つゆえに、誘惑に陥り、罪を犯すと彼は語ります。「神が祝福されているのは貧しい者であり、富んでいる者は祝福の外にあることを知りなさい」(1:9-11)。これはイエスが教えられたことでもあります。イエスは富について語られました「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる・・・しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている」(ルカ6:20-24)。
*カウンセリングの立場から見たヨブ記
「最近のヨブ記研究の中に、カウンセリングの立場からの見方がある。カウンセリングにおいて最も重要なことは、相手との関係の樹立であり・・・ドグマや固定化したアプローチの仕方は逆に相手に大きな痛手を負わせてしまう。ヨブの3人の友人たちは、キリスト教のドグマと既成概念に立って真の援助を与えることに失敗する牧師のようなものである。」
「彼ら3人は・・・どこまでも応報主義の立場に立ち、その原則から一歩も出ようとしない。エリファズの態度は逆にヨブを傷つけ、怒らせた。それは肉体の苦しみに加えて、精神的な攻撃であるように感じられたのである・・・ビルダデはすべてを簡略化するタイプで、カウンセリングの基本姿勢として不適当である。さらにツォファルは,自分の感情をむき出しにするというカウンセラーとしては最も不適当なタイプを示している。3人の友人たちの弁論は,結果から見れば,沈黙のうちに共に居た方が、はるかにまさっていたことを示している」。