1.ガリラヤで伝道を始める
・イエスは、バプテスマのヨハネが捕えられたことを伝え聞き、自らが宣教の第一線に立つべき時が来たことを悟られ、故郷、ガリラヤに戻られた(紀元28年頃)。ヨハネを捕えたのはヘロデ王の子、ヘロデ・アンティパスで、彼は当時、ガリラヤとペレヤ(ヨルダン川東岸)の領主であり、洗礼者ヨハネが活動していたのは、彼の領内ペレヤの地だった。ヘロデは、洗礼者ヨハネの運動が拡大してメシア運動(世直し運動)となり、領内に騒乱が起こるのを怖れ、ヨハネを逮捕し、マケラスの要塞に閉じ込めた。この報せを聞いて、イエスはユダヤを去り、ガリラヤに退かれた。
-マタイ4:12「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」。
・イエスの宣教は、ガリラヤから始められた。拠点にされたのはガリラヤ湖畔の町カファルナウムであった。当時のカファルナウムは、ヘロデの軍隊が駐留し(8:5)、収税所もある(9:9)、ガリラヤの中心都市だった。イエスは「悔い改めよ、天の国は近付いた」と宣言されてその宣教を始められた。
-マタイ4:17「そのときから、イエスは『悔い改めよ、天の国は近付いた』と言って宣べ伝え始められた」。
・イエスが宣教を始められたガリラヤを、マタイは「異邦人のガリラヤ」、「死の陰の地」と呼ぶ。そしてイザヤの預言を引用して、ガリラヤで新しい時代が始まったと宣言する。
-マタイ4:12-16「(イエスは)ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある町、カフアルナウムに来て住まわれた。それは預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川の彼方の地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に者に光が射し込んだ。』」
・ガリラヤは、ゼブルン族とナフタリ族に割り当てられ、「ゼブルンの地、ナフタリの地」と呼ばれた。しかし、北王国がアッシリアに滅ぼされて以降、アッシリアの属州となり、民族の混淆が進み、「失われた地」になった。その後、南王国もバビロニアに滅ぼされ、捕囚後のペルシャ支配とセレウコス朝支配の時代には、他民族の入植が続き、ガリラヤの人種、宗教、文化の混淆は進んだ。イザヤは、「辱めを受けた」ガリラヤが異邦人支配から解放されて、再びイスラエルに回復されると願いを込めて預言する。
-イザヤ8:23「先に、ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。」
・エルサレムに再建されたユダヤ教団はガリラヤを軽蔑の意味を込めて、「異邦人(異教徒)のガリラヤ」と呼んだ。ガリラヤが再びユダヤの地になるのは、ハスモン王朝がガリラヤまで支配を及ぼし、住民にユダヤ教を強制し、シナゴーグを建てるなどして教化活動を続けた結果である(前100年頃)。ハスモン王朝は、ユダヤからの入植者を送り込み、イエスの家族もこの時期のユダヤからの入植者であると見られる。イエスの時代、ガリラヤは異邦人と接するユダヤの辺境・周辺地帯という意味で「異邦人のガリラヤ」であった。ガリラヤでイエスが宣べ伝えられた福音は、「悔い改めよ。天の国は近づいた」に要約される。「天の国」とはマタイ独特の言葉で、内容は「神の国」と同じである。マタイはユダヤ人として神の名をみだりに口にすることをはばかり、「神の国」を「天の国」と読み替えた。後代の人々はこの「天の国」を「天国」と誤解し、福音とは「死んで天国に行くことだ」と誤読するようになる。
・イエスはガリラヤにおいて「神の国が始まった」と宣言された。イエスは荒野の試練ですでにサタンに勝っておられる(4:11「悪魔は離れ去った」)。それ故、「闇の中を歩む民は大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に光が輝く」という預言が成就されるとマタイは描く。
-マタイ8:14-17「イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『彼は私たちの患いを負い、私たちの病を担った』」。
2.ガリラヤでの宣教が始まる
・マタイはイエスのガリラヤ宣教を、「御国の福音をのべ伝える」ことと、「民衆のあらゆる災いや病をいやされた」ことにあるとみている。
-マタイ4:23-24「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた」。
・イエスの周りに集まってきた人たちは、徴税人や罪びと等の、差別されていた人たちであった。イエスは彼らと食卓の交わりをされた。厳格なファリサイ派はそのようなイエスを批判した。それに対してイエスは、「私が来たのは罪びとを招くためである」と言われる。
-マタイ9:12-13「イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が求めるのは憐れみであって、生贄ではないとはどういう意味か、行って学びなさい。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
・イエスが目指されたのは、神の国の実現だった。マタイ11章にイエスの思いが言葉化されている。
-マタイ11:4-6「イエスはお答えになった。『行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。私につまずかない人は幸いである」。
3. イエスの行われた病の癒しを考える
・イエスは会堂で悪霊を追い出し(マルコ1:25-26)、ペテロの姑の熱病を癒す(1:29-31)。この病気治しの評判が近隣に伝わり、多くの人々が、「患っている者や悪霊に憑かれた者をすべて彼のもとに運んで来始めた」(1:32)。イエスは人々の要望に応えて、「さまざまな病を患っている多くの者たちを癒し、また多くの悪霊どもを追い出した」(1:34)。
・本田哲郎(カトリック司祭)は聖書の個人訳を行い、ギリシャ語から聖書本文を訳し直した時、福音書に繰り返し出てくる「癒しの意味」が新共同訳の訳と異なることに気づく。「“癒す”という言葉“イオーマイ” が出るのは、マタイとマルコ両福音書について言えば、合わせて五回しかない。それもすべて、結果として“癒し”が行われたことの報告という形、もしくは“癒されたい”側の期待のことばとして出るだけで、あとはすべて“奉仕する”という意味の “セラペオー”だ。マタイとマルコ合わせて二十一回も出てくる。英語 Therapy の語源となった言葉で、これを病人に対して当てはめると、“看病する”、“手当てする”となる。 “手当て”をして、結果として“癒し”が起こって、イエス自身“深い感動をおぼえた”という事例すら、福音書は記録している。イエスにとって、神の国を実現するために本当に大事なことは、“癒し”を行うことではなくて、“手当て”に献身すること、しんどい思いをしている仲間のしんどさを共有する関わりであったことは明らかだ」(本田哲郎「小さくされた人々のための福音」)。イエスが志したのは病の治癒ではなく、「病人の苦しみに共感し、手を置く行為だった、その結果病が癒されていった」とマルコは記している事に気づく。
・カトリック司祭の幸田和生は、アルバート・ノーラン「キリスト教以前のイエス」を紹介し、イエスの癒しの業について、「病む人々に希望を与え、それが病を癒した」と語る。
-幸田和生講演から「イエスのいやしは、『信仰と希望の勝利だ』とノーランは語る。病気の人は肉体的な苦しみだけではなく、差別と偏見を受けて絶望の中に閉じ込められていた。『お前の病気は罪の結果だ』と言われていた。そういう病気の中で絶望していた人々にイエスは近づき、語る『いや、神さまは決してあなたを見捨てていない、神さまは本当にあなたのことを大切にしている、あなたが立ち上がって歩きはじめることを望んでおられるのだ』。そのメッセージを語っていく。『だから、神さまに信頼しなさい、神に希望をおきなさい』。こういうメッセージをイエスは語っている。そうした時に、病人の中に自分は病気だというあきらめから立ち上がっていく力が与えられる。本当に信頼と希望の力が与えられる」。
・マザーテレサが行ったことも病気の治癒ではない。マザーは「死に行く人を看取ったのであって、治したのではない」ことに留意した時、癒しは治癒ではなく、共感であることがわかる。イエスが与えたのも「治癒」ではなく、「癒し=慰め」だった。私たちは「治癒」と「癒し」を峻別することが必要だ。癒しが為される時、その結果治癒したかしないかは、そんなに大きな問題ではない。「ある者は治癒されて喜び、別の者は治癒されなかったが生きる勇気を与えられた」、それが大事なのではないか。