1.新しい歌を歌う
・竜と配下の獣は3年半の間地上で活動することを許された。教会に対する迫害は激しくなり、人々は捕らえられ殺されていく。しかし、ヨハネはその地上の現実の只中で、小羊キリストがエルサレムの丘に立たれるのを見た。
-黙示録14:1「私が見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っており、小羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されていた」。
・「小羊」とは、黙示録では一貫してイエス・キリストの象徴である。5章では小羊が七つの封印で封じられた巻物を解いたが、これはイエス・キリストだけが歴史の行く手を示すことが出来るという意味である。その小羊が「シオンの山に立つた」、 シオンの山はエルサレムの東にある小高い丘で、終末の時にはメシアが民を救うためにそこに現われると信じられていた。自分たちは、今は迫害に悩まされて「先が見えない」が、小羊は既にシオンの山に立っている、救いは始まっている、これがヨハネの信仰であった。
-ヨエル3:5「しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように、シオンの山、エルサレムには逃れ場があり、主が呼ばれる残りの者はそこにいる」。
・天上では新しい歌が歌われる。「主は不義を糺し、正しい者を救われる」と。
-黙示録14:2-3「私は、大水のとどろくような音、また激しい雷のような音が天から響くのを聞いた。私が聞いたその音は、琴を弾く者たちが竪琴を弾いているようであった。彼らは、玉座の前、また四つの生き物と長老たちの前で、新しい歌の類を歌った。この歌は、地上から贖われた十四万四千人の者たちのほかは、覚えることができなかった」。
・何故「新しい」のか、苦しみの中で喜びを、失望落胆の中で希望を歌うからだ。信仰者は地上の現実が厳しく、救いがないように見えても、そこに希望を見ることが出来る。何故ならば、天では既に救いの業が始まっていることを知るからだ。キング牧師の「私には夢がある」という説教はその信仰を示す。
-キング牧師・私には夢がある「今日の、そして明日の困難に直面してはいても、私にはなお夢がある・・・ジョージアの赤色の丘の上で、かつての奴隷の子孫とかつての奴隷を所有した者の子孫が同胞として同じテーブルにつく日が来るという夢が。私には夢がある。今、差別と抑圧の熱がうずまくミシシッピー州でさえ、自由と正義のオアシスに生まれ変わり得る日が来るという夢が・・・私には今夢がある!いつの日にか、すべての谷は隆起し、丘や山は低地となる。荒地は平らになり、歪んだ地もまっすぐになる日が来ると。そして神の栄光が現れ、全ての人々が共にその栄光を見るだろう」(1963年8月「ワシントン大行進」でのスピーチ)。
・4節には、「女に触れて身を汚したことのない者」とあるが、これは性行動それ自体を「汚れたこと」として禁じているとか、女性を「汚れたもの」と蔑んでいるとかいうことではない。昔、イスラエルの兵士たちは、出陣する前には一時的に禁欲した(サムエル記上21:6)。また、ある信者の集団では、宣教の使命を果たすために出発する前は禁欲したといわれている。
-黙示録14:4-5「彼らは、女に触れて身を汚したことのない者である。彼らは童貞だからである。この者たちは、小羊の行くところへは、どこへでも従って行く。この者たちは、神と小羊に献げられる初穂として、人々の中から贖われた者たちで、その口には偽りがなく、とがめられるところのない者たちである」。
2.裁きの時が来る
・三人の天使が現れ、最初の天使は福音を伝える。神は「人の滅びではなく、救いを望んでおられる」と。
-黙示録14:6-7「私はまた、別の天使が空高く飛ぶのを見た。この天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携えて来て、大声で言った『神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい』」。
・第二の天使は裁きが獣=バビロンに臨み、権勢を誇るローマ帝国が滅ぼされることを伝える。
-黙示録14:8「別の第二の天使が続いて来て、こう言った『倒れた。大バビロンが倒れた。怒りを招くみだらな行いのぶどう酒を、諸国の民に飲ませたこの都が』」。
・その時、獣を拝した者も共に倒され、地獄に投げ込まれる。
-黙示録14:9-11「別の第三の天使も続いて来て、大声でこう言った「だれでも、獣とその像を拝み、額や手にこの獣の刻印を受ける者があれば、その者自身も、神の怒りの杯に混ぜものなしに注がれた、神の怒りのぶどう酒を飲むことになり、また、聖なる天使たちと小羊の前で、火と硫黄で苦しめられることになる」。
・不義は正され、正義が回復されるゆえに、主に結ばれて死ぬ人は幸いだと言われる。迫害の死も、戦火の中の死も、若くして病に倒される死もまた幸いだ。主は彼の無念を知り、慰められるからだ。
-黙示録14:13「私は天からこう告げる声を聞いた「書き記せ。今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いであると」。“霊”も言う「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである」。
・収穫のために鎌が地上に入れられる。良い実を結んだ麦は刈り取られ、天の穀倉にしまわれる。
-黙示録14:14-16「天使が神殿から出て来て、雲の上に座っておられる方に向かって大声で叫んだ『鎌を入れて、刈り取ってください。刈り入れの時が来ました。地上の穀物は実っています』。そこで、雲の上に座っておられる方が、地に鎌を投げると、地上では刈り入れが行われた」。
・悪い実を結んだものも収穫されて、神の怒りの絞り桶に入れられ、踏まれ、血を流していく。
-黙示録14:17-20「天使は、地に鎌を投げ入れて地上のぶどうを取り入れ、これを神の怒りの大きな搾り桶に投げ入れた。搾り桶は、都の外で踏まれた。すると、血が搾り桶から流れ出て、馬の轡に届くほどになり、千六百スタディオンにわたって広がった」。
*1600スタディオン=4×4×100、地の四隅まで、全世界を意味する。
3.神の怒りと裁きをどう考えるか
・ヨハネ黙示録では、神の怒りによって、サタンに従う者たちには、「永遠の滅び」が臨むとする。神の怒りについて語った有名な説教に、ジョナサン・エドワーズの「怒れる神の御手の中にある罪人」がある。彼はイザヤ63章を引用して語る。「新生していない者は、怒れる神の御手の中にある。神は憤って彼らを踏みにじり、返り血を浴びた神の衣がよごれる」。
-イザヤ63:3-6 「私はただ一人で酒ぶねを踏んだ。諸国の民はだれひとり私に伴わなかった。私は怒りをもって彼らを踏みつけ、憤りをもって彼らを踏み砕いた。それゆえ、私の衣は血を浴び、私は着物を汚した。私が心に定めた報復の日、私の贖いの年が来たので、私は見回したが、助ける者はなく、驚くほど、支える者はいなかった。私の救いは私の腕により、私を支えたのは私の憤りだ。私は怒りをもって諸国の民を踏みにじり、私の憤りをもって彼らを酔わせ、彼らの血を大地に流れさせた」。
・保守派のロイドジョンズは、神の怒りを説教することへの反対論に対し、教会が神の怒りについて話さなくなってから、人々が教会から離れたと指摘している。また、ロイドジョンズは、リベラルの考えに反して、ジョナサン・エドワーズ、ジョージ・ホウィットフィールド、ピューリタン、プロテスタントの父祖たち、アウグスティヌスが原罪と神の怒りを教えた時に、神が多くの人を救いに導かれたことに注目している。福音派は、万人救済に反対し、永遠の地獄の教理を弁護して、多くの出版物を出した。
・他方、カール・バルトの神学においては、「イエス・キリストを信じる者も信じない者もすべて神の怒りから救い出される」とする。彼は語る「地獄は存在するかもしれないが、最後には空き家になる」。神は「人の滅びではなく、救いを望んでおられる」と考えた時、バルトの考え方に共感できる。黙示録はそのまま読む書ではなく、聖書全体から釈義すべき書である。