江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2020年5月6日祈祷会(第一ヨハネ3章、神の子とされて)

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1.神の子として歩みなさい

 

・ヨハネの教会では、異なる信仰を持つ人々が、教会を分裂させて、出て行った。後に「グノーシス主義」と呼ばれるようになった異端的な考え方を持つ人々で、彼らはギリシア哲学の霊肉二元論の影響を受けて、「ナザレのイエスが神の子として来られた(受肉)」ことを否定し、「イエスの十字架によって私たちの罪が贖われた(贖罪)」も否定し、教会を割って出ていった。

・ヨハネは「彼らは信仰の友ではない」とはっきり言う(2:19)。そして、残された教会の信徒に、「あなたがたは教えられた通り、御子の内に留まりなさい」と命じる(2:27)。御子の内に留まる、キリストへの信仰の内に留まることをヨハネは求める。

-第一ヨハネ2:19-27「彼らは私たちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、私たちの元に留まっていたでしょう。・・・教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい」。

・御子の内に留まるとは、神の愛の内に留まることだ。神は御子を遣わすことを通して、私たちを神の子として下さった。この愛に留まりなさい。

-第一ヨハネ3:1「御父がどれほど私たちを愛してくださるか、考えなさい。それは、私たちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世が私たちを知らないのは、御父を知らなかったからです」。

・私たちは神の子となった。それは私たちが正しいためではなく、神が私たちを愛してくださったからだ。この愛によって私たちは神の子とされ、神の命の中にある者は神に似る者となって、聖化されていく。

-第一ヨハネ3:2-3「愛する者たち、私たちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます」。

・現在の私たちはまだ「聖なる」ものではない。罪を犯す。しかし犯し続けることは出来ない。罪を犯すことがあっても、それを悔い改める。悔い改める者を神は赦してくださる。

-第一ヨハネ1:9「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義から私たちを清めてくださいます」。

・清められた者は神の子となる。神の子はそれにふさわしい人格になっていく。神の子と悪魔の子を分けるものは、愛だ。私たちが兄弟を愛するかどうかが、区分になる。愛の行為を通して人は聖化されていく。

-第一ヨハネ3:9-10「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です」。

 

2.兄弟を愛するとは何か

 

・兄弟を愛するとはその兄弟のために死ぬことだ。具体的には兄弟の十字架を共に担うことだ。

-第一ヨハネ3:16-18「イエスは、私たちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちも兄弟のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」。

・カインは弟アベルの献げ物が受け入れられ、自分の献げ物が否定されたとき、アベルを妬んで彼を殺した(創世記4:2-5)。カインのようになるな。愛とは相手のために死ぬことであり、妬みとは自分の怒りのために、相手を殺すことだ。教えられたこの愛にとどまることを通して、私たちは死から命に移される。

-第一ヨハネ3:14-15「私たちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません」。

・ヨハネは動揺する信徒たちを励まして言う「御心にかなうことは願えばその通りになる」。

-第一ヨハネ3:21-23「愛する者たち、私たちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、神に願うことは何でもかなえられます。私たちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方が私たちに命じられたように、互いに愛し合うことです」。

 

3.第一ヨハネ3章の黙想

 

・キリスト教の根本教理は、「贖罪による救い」だ。「神の子が私たちのために死んでくださった、だから私たちも他者のために死んでいこう」という信仰である。人間の愛は自己の利益を求めて相手を裏切るが、神の愛はその裏切り続ける者のために死ぬ愛だ。神の子が自分のために死んでくれた、そのことを知った時、私たちはもう以前のような生き方は出来ない。この贖罪愛が私たちをキリスト者にする。贖罪愛を信じることのできない者たちは教会を割って出ていった。

・しかし贖罪をどう理解するかは、実は難しい。現代の聖書学は「イエスは自らの死の必然性、その意義、結果を語らなかった。しかし弟子たちはイエスの死後に、イエスの死の必然性と意義を語り始め、これが贖罪論、救済論、和解論の成立をもたらした」(橋本滋男「多元化社会における神学と教会」)と考える。聖書学者は語る。「イエスは終末の時が間近に迫っているという危機的予想の下に、人々に対して心を開いて神の支配を謙虚に受け入れるべきことを勧め、人は己れの獲得する外的なものに依存・執着することをやめ、幼子のように素直に神に信頼を寄せつつ生きるべきことを教えた。この宣教内容は本来イエスの死を必要とせぬものであり、イエスもその死以前に人々が彼の告知を理解して悔い改めることを期待したと思われる」(橋本滋男「贖罪論の成立について」) 。

・歴史のイエスは、社会の中で周辺に追いやられていた徴税人や娼婦、病人等の救済のために働かれ、その結果支配階層であるユダヤ教当局者(祭司、律法学者、ファリサイ派)と激しく対立し、ローマ当局からも治安を乱す危険人物とみなされ、殺された。イエスご自身は生きて神の国の到来を告知され、自分の死によって救済が成るとはお考えにならなかったのは、聖書学者の語る通りだと思える。イエスはゲッセマネでは「この杯を私から取り除いてください」と祈られ(マルコ14:36)、十字架上では「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれた(同15:34)。

・イエスは神の見捨ての中で死んで行かれた。しかし父なる神はイエスを見捨てられなかった。神はイエスを死からよみがえらせ、復活のイエスに出会った弟子たちは、イエスを神の子、キリストとして拝し、イエスの死と復活を通して、自分たちの罪が赦されたことを旧約聖書を通して理解し(イザヤ53:10-11「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした・・・私の僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った」。)、この理解を私たちも継承している。それが贖罪論だ。

・哲学や歴史学では人間の知性を根底に置くために、実証できないもの、理解できないものは否定していく。だからヨハネの教会から出ていった人々がイエスの受肉や贖罪を否定し、現代の聖書学はイエスの贖罪死を否定する。しかし霊の世界においては、人間の限界を超えた存在を受け入れていく。「神共にいます」という信仰は人間の知性の限界を超えるが、私たちは主観的にそれを受け入れる。キリストの贖罪死も知性で受け入れることは難しいが、その贖罪愛に生かされてきた人々の歴史を知るゆえに受け入れる。

・「宝島」、「ジキルとハイド」、等を書いた作家のロバート・スティーヴンスンは、ある時、らい病者たちが収容された島(ハワイのモロカイ島)を訪れる。島では、ダミアン神父がライ病者救済のために働き、神父死後は修道院のシスターたちがらい病者の世話をしていた。島を訪れた彼は次のような詩を歌います-「この所には哀れなことが限りなくある。手足は切り落とされ、顔は形がくずれ、さいまれながらも、微笑む、罪のない忍苦の人。それを見て愚か者は神なしと言いたくなろう」。なぜ、らい病のような忌まわしい病気がなぜあるのかわからない。不信仰者はそれを見て「神はどこにいるのか」とうそぶく。しかし、彼は続ける「もう一度見つめるならば、苦痛の胸からも、うるわしさ湧き来たりて、目に留まるは歎きの浜で看取りする姉妹たち。そして愚か者でも口をつぐみ、神を拝む」(スティーヴンスン「旅の歌」より)。

・らい病者のために自分の生涯を捧げる人がいる。この人たちこそ、キリストの贖罪死に心動かされた「キリストにある愚者」だ。その時まさに「神を見た者は、まだ一人もいない。もし私たちが互に愛し合うなら、神は私たちのうちにいまし、神の愛が私たちのうちに全うされるのである」(第一ヨハネ4:12)という言葉が成就する。知性を超えた信仰の力こそ、ヨハネが伝えたかったものではないか。

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