江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2020年5月27日祈祷会(第二ヨハネ1章、教会を分裂させる人々との関係のあり方)

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1.教会を出て行った人々とどのように交際するのか

 

・ヨハネ福音書は紀元90年頃、使徒ヨハネ(あるいは愛弟子ヨハネ)によって書かれたが、90年代後半から100年頃になると、イエスの肉体性を否定するグノーシスと呼ばれる分派の人々が現れ、教会を割って出て行った。ヨハネ共同体の指導者であった長老ヨハネは混乱する諸教会に宛てて手紙を出し、その中で出て行った人たちを、「私たちの仲間ではなかった」と告発する。

-第一ヨハネ2:19「彼らは私たちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、私たちの元に留まっていたでしょう。しかし去って行き、誰も私たちの仲間ではないことが明らかになりました」。

・第一の手紙から推察すれば、彼らはナザレのイエスが「救い主キリスト」であることを認めず、神の霊がバプテスマの時に一時的にイエスに宿ったと考えた(仮現論)。そして彼らはキリストの受難も否定し、「イエスが十字架にかけられた時に、神の霊はイエスから出て行った」と主張した。ギリシャ哲学の影響下にあった彼らは、「神は霊であり、一時的に肉のイエスに神の霊が宿ったに過ぎない」と考えた。

-第二ヨハネ1:7「このように書くのは、人を惑わす者が大勢世に出て来たからです。彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです」。

・彼らは十字架の贖いを否定した。十字架の贖いを否定するとは、「自分の十字架を背負って、キリストに従う道」を否定することだ。彼らが求めるのは、自分たちの願い、「苦難がなく、病気もなく、幸福に暮らす人生」である。それに対してイエスは教えられた「苦難や悲しみを見つめ、それを担うことによって命を得る」と。

-ルカ9:23-24「私について来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のために命を失う者は、それを救うのである」。

・誰も十字架など背負いたくないが、「そこに救いがあるのであれば背負って行こう」というのが信仰だ。それを嫌って、ある人々は教会を出ていった。ヨハネは、彼らはキリスト者ではないと言う。

-第二ヨハネ1:9「だれであろうと、キリストの教えを越えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません。その教えにとどまっている人にこそ、御父も御子もおられます」。

・ヨハネは教会を割って出て行った人々を、「家に迎え入れるな、手助けするな」と警告する。

-第二ヨハネ1:9「この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません。挨拶してもなりません。そのような者に挨拶する人は、その悪い行いに加わるのです」。

・テトスへの手紙の中でパウロも、分裂を引き起こす人々とは交際するなと述べる。

-テトス3:10-11「分裂を引き起こす人には一、二度訓戒し、従わなければ、係わりを持たないようにしなさい。あなたも知っている通り、このような人は心がすっかりゆがんでいて自ら悪いと知りつつ罪を犯しているのです」。

 

2.神の国と地上の教会

 

・地上の教会は神の国ではない。私たちは無罪を宣告されても、本質は罪人のままだ。人間的な思いが教会を壊すこともある。その場合は腐敗が広がらないように、病根を分離することもやむをえないとパウロは教える。

-第一コリント5:6-7「あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい」。

・手紙のあて先教会でも分裂騒ぎが起きていた。真理に歩んでいない人々がいたことを手紙は示唆する。

-第二ヨハネ1:4「あなたの子供たちの中に、私たちが御父から受けた掟どおりに、真理に歩んでいる人がいるのを知って、大変うれしく思いました」。

・教会から出て行った人々と付き合わないのは、外的防御だ。しかし、もっと必要なことは内的防御、お互いが愛し合うことだ。ここに語られる「婦人」とは教会のことだ。

-第二ヨハネ1:5-6「さて、婦人よ、あなたにお願いしたいことがあります。私が書くのは新しい掟ではなく、初めから私たちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということです。愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです」。

・愛し合うとは、仲良くすることや飲食の交わりをすることではない。イエスが言われたように、相手の足を洗う、仕えていくことだ。

-ヨハネ13:14-15「主であり、師である私があなた方の足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。私があなた方にした通りにあなたがたもするようにと、模範を示したのである」。

 

3.ヨハネ第二の手紙の黙想から

 

・ヨハネ共同体はイエスの死後パレスチナで成立し、その中心になったのが愛弟子と呼ばれた使徒ヨハネだと言われている。やがてユダヤ戦争が起き(66-70年)、エルサレムは破壊され、ユダヤ人たちは国を追われて難民となる。ヨハネ共同体は小アジアに逃れ、エフェソを中心にしたいくつかの教会を生み出し、その共同体の信仰告白として生まれたのがヨハネ福音書とされる(90年頃)。共同体はやがて皇帝礼拝の強制に直面し、共同体の指導者であった預言者ヨハネが95年ごろヨハネ黙示録を書き、迫害に苦しむ信徒を慰めた。ローマ帝国からの迫害はドミティアヌス帝の暗殺により終わるが、今度は共同体内にグノーシスと呼ばれる異端的キリスト論が生まれ、教会分裂の危機が訪れ、それに呼応して長老ヨハネが書いたのが三通のヨハネの手紙と言われている。

・ヨハネ福音書とヨハネ黙示録、三通のヨハネの手紙は同じ共同体の中で生まれた。黙示録そのものが小アジアにある七つの教会(ヨハネ共同体)に宛てて書かれた手紙であり、その中心になったエフェソ教会にあてては次のように書かれている。

-ヨハネ黙示録2:2-3「私は、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、私の名のために我慢し、疲れ果てることがなかった」。

・ところがその後に叱責の言葉が続く。

-ヨハネ黙示録2:4-5「あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。もし悔い改めなければ、私はあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう」。

・エフェソ教会は異なる教えに惑わされることはなかったが、信仰の真偽を見分けようとする熱意が度を越して、「初めのころの愛」から離れ、お互いを裁き合う宗教裁判的な色彩を帯びるようになった。だから「初めのころの愛に戻れ」と語られている。教会はお互いの足を洗い合う場だ。相手に仕える愛なしにキリスト者はキリスト者たり得ないし、教会は教会たり得ない。

-第一コリント10:23-24「すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが私たちを造り上げるわけではない。だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」。

・非寛容の現代社会では相手を攻撃することによって勝とうとする。しかし教会では相手を包み込むことによって勝利を目指す。パウロはローマ教会の人々に語る「愛は敵を友に変える力を持つ」と。

-ローマ12:20-21「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」。

・アフガン・イラク戦争時、アメリカは国家をあげて戦争に突入した。しかしその中でもアフガン・イラクのために祈る少数のキリスト者がいた。

-グランド・ゼロからの祈り「復讐を求める合唱の中で、『敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい』と促されたイエスの御言葉に聞くことが出来ますように。キリストは全ての人のために贖いとして御自身を捧げられました。キリストはアフガニスタンの子供や女や男のために死なれました。神はアフガニスタンの人々が空爆で死ぬことを望んでおられません。国は間違っています。神様、為政者のこの悪を善に変えて下さい」(「グランド・ゼロからの祈り」、ジェームズ・マグロー、日本キリスト教団出版局)。

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