江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2020年4月15日祈祷会(第二ペテロ3章、私たちにとって終末とは何か)

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1.終末の遅延にいらだつ人々

 

・著者は3章で、終末と主の再臨について詳述する。初代教会は主の再臨が近いとして、緊張のうちに信仰生活を送っていたが、それが来ないために、教会内に終末・再臨についての疑念が高まっていた。

-第二ペテロ3:3-4「終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、こう言います『主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか』」。

・イエスは生前繰り返し「私は再び来る」、「その時に神の国は完成する」と言われていた。

-マルコ13:24-27「それらの日には・・・太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。その時、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。その時、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」。

・初代教会はこの約束の上に立てられ、人々は全てを捨てて共同生活を行い、この日を待った。

-第一テサロニケ3:13「私たちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られる時、あなたがたの心を強め、私たちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように」。

・しかし、いくら待ってもその日は来ない。「主の再臨などない」という疑念が人々の心に出てきた。著者は主が約束をたがえられたのではない、主は忍耐して一人も滅びないように待っておられるのだと説く。

-第二ペテロ3:9「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」。

・ペテロは「終わりの日は必ず来る。あなた方は日々やるべきことを行ってその日を待て」と勧める。

-第二ペテロ3:10-13「主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかし私たちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです」。

 

2.私たちにとって終末とは何か

 

・天地は滅びる、この世界は有限であるというのが、聖書の基本的な考え方だ。

-マタイ24:35「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」

・個人にとっての終末は死である。その死にどう対応するのか。ある人はそれを無視する。

-イザヤ22:13「しかし、見よ、彼らは喜び祝い、牛を殺し、羊を屠り、肉を食らい、酒を飲んで言った『食らえ、飲め、明日は死ぬのだから』と」。

・終末を死に置き換えた時、この問題は私たちの問題になる。その日に備えて何もしないのは愚かだ。

-ルカ17:27「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった」。

・ペテロは詩篇90:4を引用して言う「主の前では千年は1年のようであり、1年は千年のようだ」と。

-第二ペテロ3:8「このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」。

・1日は千年に匹敵する時間である。いろいろなことが出来る。同時に、残された時は無限ではない。決断を延ばしたり、時間を浪費してはいけないと。

-第二ペテロ3:14「だから、愛する人たち、このことを待ち望みながら、傷や汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい」。

・終末は時間的な終わりであるとともに、目的の成就の時である。なすべきことに励みなさい。

-第一テサロニケ4:11「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい」。

・そしてパウロのように、「自分は為すべきことをした」といって、終末である死を迎えなさい。

-第二テモテ4:6-7「世を去る時が近づきました。私は、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました」。

・後は主に委ねよ、主はあなたがどのように生きたかを知っておられる。

-イザヤ49:4「私は思った、私はいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、私を裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのも私の神である」。

 

3.第二ペテロ3章の黙想(死を前にして人は何ができるのか)

 

・「夜と霧」(原題「強制収容所における一心理学者の体験」)を書いた精神科医フランクルは講演の中で「死があるからこそ、この一度きりの人生は貴重なのだ」と語る。

-フランクル「それでも人生にイエスという」から「ある人が訊ねた『いずれ死ぬのであれば、人生は初めから無意味ではないか』。その問いに私は答えた『もし私たちが不死の存在だったらどうなっていたのか。私たちはいつでもできるし、また何もかも後回しにするだろう。明日するか、十年後にするかということが全然問題にならないからだ。しかし、私たちがいつか死ぬ存在であり、人生は有限であり、時間が限られているからこそ、何かをやってみようと思ったり、何かの可能性を生かしたり、実現したり、充実させようとする。つまり、死は生きる意味の一部になっている。苦難と死こそが人生を意味あるものにする」。

・フランクルはユダヤ人であり、強制収容所に収容された。その絶望的な状況の中で、なお人々に生きる力を与えた三つの価値創造があったことを発見した。第一の価値は「創造価値」である。フランクルが強制収容所に連れて来られた時、彼は精神医学の論文を隠し持っていた。それは彼にとって自分が生きた証であり、上着の裏に縫い付けて持ち込んだ。しかし、その原稿は服もろとも没収、処分されてしまう。 その後、フランクルは紙の切れ端を手に入れ、わずかな時間を見つけては原稿の復元を試みる。何としても論文を仕上げ、世に問いたい。強制収容所でフランクルを支えたのはこの原稿の存在だったという。人が何かの作品を作り上げ、あるいは自分が為すべき仕事を通して実現していく価値が、「創造価値」である。

・創造価値は働けない病人や老人には生じにくい。それを補うのが「体験価値」である。一日の労働に疲れたフランクルたちは、バラックに帰る途上で見事な夕焼けに出会う。その時、一人の囚人がつぶやく「世界はどうしてこんなに美しいのだろう」。この「体験価値」は、働くことが出来なくとも、病で寝たきりになっても生み出せる価値だ。生涯を寝たきりで過ごされた水野源三さんは語る「神様の大きな御手の中で、かたつむりはかたつむりらしく歩み、蛍草は蛍草らしく咲き、雨蛙は雨蛙らしく鳴き、神様の大きな御手の中で、私は私らしく生きる」。水野さんの詩は多くの人々に生きる力を与えた。

・三番目の価値が、「態度価値」だとフランクルは言う。フランクルは講演の中で、死刑囚と最後の面接をした牧師の話を紹介している。「死刑囚は牧師に向かって言う『今となっては自分の短い人生のすべてが無駄だったのではないか』。牧師は彼に応える『パウロは“私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬ。生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものだ”と語った(ローマ14:8)。あなたは主のために生きるチャンスは逃したが、主のために死ぬチャンスはまだある』」。

・牧師は死刑囚に続けて語る『神のみ言葉を心に響くように生き生きと語ることは私には難しい。けれども次の日曜日に説教壇に上がる時、私の教区の人たちはこう思うかもしれない。一体、今日の牧師さんはどうしたのだろう。いつもと全然違う。“説教が心に響いてくる”。私には理由がわかっている。それはあなただ。あなたが勇敢にきっぱりと死に向かって行く姿を見ることが出来たからだ。主のみ言葉があなたに働きかけ、主のために生きたことがなくても、主のために死んでいくのを見ることが出来たからだ』」。何もできなくとも、心の向きを変えることを通して、私たちは人生を豊かにすることが出来るとフランクルは語る。「創造価値」、「体験価値」、「態度価値」、いずれも「生きる勇気」を与えてくれる価値群だと思える。

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