1.終末を前にして
・ペテロの手紙はローマ帝国のキリスト教徒迫害が始まった60年代後半に書かれたとされる。キリストの十字架と復活を信じ、御言葉に従って生きようとしただけなのに、その生き方が世から迫害を受けた。迫害の中で、人々は怖れ、困り果て、教会の中に動揺が生じていた。ローマにいたペテロは小アジアの信徒たちを慰めるために、手紙を書いた。
-第一ペテロ4:12-13「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れる時にも、喜びに満ちあふれるためです」。
・ペテロは「キリストは正しい方であったのに、囚われ、十字架で苦しまれ、その苦しみを経て復活の栄光に入られた。だからあなたがたも与えられた苦しみを神からの試練として受け入れ、喜びなさい」と語る。迫害の中で、キリスト者はどのように生きるべきかが4章の主題である。
-第一ペテロ4:1「キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです」。
・あなたがたはキリストの血によって世の罪から解放された。今度は行いで証ししていけと語られる。
-第一ペテロ4:3-4「かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです」。
・4章7節でペテロは語る「万物の終わりが迫っている」。初代教会の人々は終末の接近を信じて生きていた。
-第一ペテロ4:7-9「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。不平を言わずにもてなし合いなさい」。
・イエスは言われた「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)。そのイエスが十字架で死なれた後、復活されて、弟子たちの前に現れた。弟子たちはその出来事を、「終末が始まった」と理解した。
-第一テサロニケ5:1-6「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです・・・ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいなさい」。
・終末を前にした時、人は賜物を自分のためではなく、他者のために用いる生き方、神の栄光のために生きるようになる。何故なら最後の審判の時が迫っているからだ。
-第一ペテロ4:10-11「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。・・・神が栄光をお受けになるためです」。
2.試練を喜んで受けなさい
・キリスト者が世から試練を受けるのは当たり前だ。それに驚いていてはならない。それはイエスが繰り返し言われたことだ。神に従うとは、この世では少数者になることだ。
-ルカ6:22-23「人々に憎まれる時、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられる時、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである」。
・不道徳なことをして非難されてはいけないが、主のために苦しみを受けるのなら、それを喜びなさい。
-第一ペテロ4:15-16「あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい」。
・私たちは神の前に立つ時、申し開き(give an account)をしなければいけない。会計報告をするように、人生で為したことが問われていく。その時救われる人はいない。救いは神の憐れみにすがるしかない。
-第一ペテロ4:17-18「今こそ、神の家から裁きが始まる時です。私たちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。正しい人がやっと救われるのなら、不信心な人や罪深い人はどうなるのかと言われているとおりです」。
・神は憐れんで下さる。それを信じて、自分の救いを神に委ねなさい。その時、人への審きは出てこない。
-第一ペテロ4:19「だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂を委ねなさい」。
3.終末を前にした生き方とは何か
・ペテロは「神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」(4:10b)と語る。私たちは健康や才能、富を神から賜物として預かっている。ビル・ゲイツ(マイクロソフト創業者)やマック・ザッカーバーグ(フェイスブック創業者)、ティム・クック(アップルCEO)等が自分の全財産を財団に寄付し、社会活動に注力しているのは有名だ。税制上の問題もあるが、それ以上に「神により与えられた財産を神に帰す」という意味合いが大きいと思える。アメリカで影響力の大きいメソジスト教会の創設者ジョン・ウェスレーは教えた「できる限り稼ぎ、できる限りたくわえ、できる限り与えよ」。これが「健全な資本主義」の在り方だ。
・しかし神を信じない人々は「地上に富を積む」ことに執着する。地上の富の最大化を目指す運動こそ「不健全な資本主義」であり、現代の資本主義はその最終段階である市場原理主義になり、市場が「神」になっている。ペテロは、「皇帝を神として拝め」と命じるローマ帝国の支配の中でどう生きるべきかを信徒に教えた。現代の私たちは、「地上に富を積むことを最終目標とする強欲資本主義社会の中でどう生きるべきか」を考える必要がある。
・現代は神なき時代にある。中野剛は語る「多くの国民は、3.11に東日本をおそった大震災や福島原発事故を、『神の怒り』や『天罰』などとは考えていない。われわれは巨大地震発生の自然的メカニズムを知っており、原発の有効性とともに、制御不能なほどの危険性も知った。この宇宙の誕生から人類としての進化過程も解明されてきた。病気を引き起こす遺伝子メカニズムも分かってきた。そして、それらが招く災害や被害への対策・対処も、経験科学的な知識と技術によってのみ可能であり、祈りや呪術では解決できないことを知っている」(中野毅「近代化・世俗化・宗教」、創価大学社会学報、2012.3)
・しかし、それでも人は根源的な問いには答えることが出来ない。中野剛は続ける「『大災害の中で、私は生き残って、あの人は亡くなった。何故なのか、これからどのように生きていけばよいのか』という実存的な問いに応えるものをこの社会は持っていない」。現代人といえども、神なしでは生きて行くことは出来ないのに、彼らはそれを自覚していない。この人々にどのように届く言葉を教会は語るべきなのか。
-第一ペテロ4:11「語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい」。
・初代教会は「終末の希望」の中に生きていた。だから「天に富を積む」ことが彼らの生き方になった。しかし今日、「終末」が語られることが少なくなった。イエスの復活から2000年たっても、イエスの再臨も神の国も来ないからだ。しかし、カール・バルトは主著「ローマ書」の中で語る。
-Karl Barth「ローマ書」邦訳470-471 頁「(終末にキリストが地上の裁きのために天国から降りてくるという)再臨が遅延するということについて、その内容から言っても少しも現れるはずのないものが、どうして遅延などするだろうか。再臨が遅延しているのではなく、我々のめざめが遅延しているのである」。
・「キリストは既に来ておられる、私たちの心の中に生きておられるではないか」とバルトは語る。終末は既に来ている、その中で、私たちは今をどう生きるのか。聖フランシスの祈りは示唆に富む。
-聖フランシスの祈り「主よ、慰められるよりも慰める者として下さい。理解されるよりも理解する者に、愛されるよりも愛する者に。それは、私たちが、自ら与えることによって受け、許すことによって赦され、自分のからだをささげて死ぬことによって、とこしえの命を得ることができるからです」。
・私たちは慰められ、理解され、愛されることを求めるゆえに、人から裏切られ、理解されず、嘲笑されて苦しむ。「慰められ、理解され、愛される」人生は、受動的、人に依存する生き方だ。しかし私たちは「人ではなく、神に依存する」。キリストは私たちを赦し、私たちのために死んで下さった。そのことを知ったから、私たちもまた他者を赦し、他者のために死んでいく、そういう能動的な人生を生きる時、私たちは本当に、意味ある人生を歩む存在に変わっていくのではないか。