1.信仰の生活化
・著者は手紙を閉じるに当たり、日常生活に関する訓戒を読者に送る。それは信仰を生活の中で生きることであり、その中心は兄弟愛である。兄弟として生きる、その信仰が具体化されなければ、何の意味もない。
-ヘブル13:1-3「兄弟としていつも愛し合いなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい」。
・兄弟として生きるとは、具体的には「自分が関った人にできるだけの事をする」(旅人をもてなす)ことであり、「困難の中にいる人に手を伸ばす」(獄に囚われている兄弟たちのことを配慮する)ことだ。
-マタイ25:35-40「お前たちは、私が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。』」
・その基本にあるのは「愛の黄金律」である。
-マタイ7:12「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」
・その愛はイエス・キリストの愛に基礎づけられている。
-ヨハネ13:34「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。
・不品行を避け、金銭に執着せず、持っているもので満足しなさい。主は必要なものは与えてくださる。
-ヘブル13:4-6「結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、『私は、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない』と言われました。だから、私たちは、はばからずに次のように言うことができます。『主は私の助け手。私は恐れない。人は私に何が出来るだろう』」。
・結婚は許されるが、姦淫は貪りだ。所有は禁止されないが、持っているもので満足することが求められている。神は必要なものは与えてくださることを信じるゆえに、キリスト者は貪りと貪欲から解放される。
-マタイ6:32-34「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要な事をご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな」。
2.キリストに従う
・信仰の戦いを全うして死んだ先人たちを思い起こせ、特にその死に様を見よと著者は言う。ある者は苦難の中で死に、ある者は約束の成就を見ずに死んでいった。しかし、彼らの死は無駄ではない。
-ヘブル11:13「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」。
・キリストも十字架上でうめきを上げて死んでいかれた。しかし、神はキリストを復活させて下さった。キリストは今も生きてあなたと共におられる。
-ヘブル13:7-8「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」。
・キリストはあなた方を贖うために、エルサレム城門の外で苦難にあわれた。それは贖いの子羊としての死だった。キリストが死なれたゴルゴダの丘こそ私たちの祭壇なのだ。
-ヘブル13:10-12「私たちには一つの祭壇があります・・・罪を贖うための動物の血は、大祭司によって聖所に運び入れられますが、その体は宿営の外で焼かれるからです。それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです」。
・だから私たちも門の外に出て(エルサレム、ユダヤ教の束縛から離れて)、イエスの御許に行こうではないか。
-ヘブル13:13-14「だから、私たちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、その御許に赴こうではありませんか。私たちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです」。
・神が喜ばれる生贄はあなた方の良い行いと施しだ(参照:アモス5:21-24)。それを神に捧げようではないか。
-ヘブル13:15-16「だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。善い行いと施し、とを忘れないでください。このような生贄こそ、神はお喜びになるのです」。
・そのためには、教会の指導者を敬い、彼の言葉に耳を傾けなさい。彼らはあなた方を養う牧者=羊飼いなのだ。
-ヘブル13:17「指導者たちの言うことを聞き入れ、服従しなさい。この人たちは、神に申し述べる者として、あなたがたの魂のために心を配っています。彼らを嘆かせず、喜んでそうするようにさせなさい。そうでないと、あなたがたに益となりません」。
・最後に著者は祝祷を持って、手紙を閉じる。
-ヘブル13:20-21「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによって私たちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン」。
3.ヘブル13章の黙想(この世でキリストに従うことの意味)
・へブル書は国家によるキリスト教迫害に苦しむ信徒たちに、旧約聖書を基盤にしたメッセージを伝える。それは当時の人びとには理解できる使信であった。しかし現代人には伝わりにくい。生きた神学は、御言葉が現代の私たちにどのような意味を持つのかを示す。
-ロバート・ベラー「善い社会」から「ヘブライ人への手紙の著者が誰であるかはどうでも良い。それは死んだ神学だ。生きた神学はこの書が私の人生にどのような意味を持つのかを教える。ヘブル13:5は語る「主は『私は、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない』と言われました」。16歳の娘の麻薬が発覚した時、この言葉はどのように私を導くのか。会社が買収されて24年間勤務した職場を去らなければいけない時、この言葉の意味は何なのか、それが問題なのである」。
・私たちには、「地の塩、世の光」としての使命が与えられている。今、社会の中で貧困とバッシングという社会悪の中で、あえいでいる弱者がいるのであれば、私たちは何かを為すように求められる。精神科医・和田和樹は「この国の冷たさの正体」(朝日新書、2016.1.13)の中で語る。「なぜこの国はかくも殺伐としているのか。個人、組織、そして国家、どの位相でもいびつな『自己責任』の論理が幅を利かせる。『自由』よりも強者の下で威張ることをえらび、『平等』より水に落ちた犬を叩く」。
・「この国の冷たさの正体」で語られたことは自己責任論の罪である。バブル崩壊後の不良債権処理の中で国は「弱者切り捨て」にかじを取り、「貧乏人は頑張らないから貧乏になった」、「老後資金の不足はその人の準備不足の故だ」等の自己責任論を唱えた。国は「聖域なき構造改革」を唱え、企業収益の回復のため最大の費用項目である労働費削減目的で、労働者派遣法の改正を行った。その結果、非正規労働者が増え、個人所得は減少し、個人消費の落ち込みによりデフレが続いた。「自己責任論」の掛け声の下で、生活保護受給者や高齢者へのバッシングと自己負担増が行われた。
・ドイツの聖書学者ゲルト・タイセンは「イエス運動の社会学」という本を書いた。イエスが来られて、社会がどのように変えられたかを分析した本だ。「イエスが来られても社会は変わらなかった。多くの者はイエスが期待したようなメシアでないことがわかると、イエスから離れて行った。しかし、少数の者はイエスを受入れ、悔い改めた。彼らの全生活が根本から変えられていった。イエスをキリストと信じることによって、『キリストにある愚者』が起こされた。このキリストにある愚者は、その後の歴史の中で、繰り返し、繰り返し現れ、彼らを通してイエスの福音が伝えられていった。彼らが伝えたのは、『愛と和解のヴィジョン』だった」。
・キリストにある愚者は、歴史の中で、次から次に現れた。昨年12月アフガニスタンで殉教された中村哲兄(福岡・香住ヶ丘バプテスト教会)は語る。「裏切られても裏切り返さない。その誠実さこそが人を動かす」。彼は周りの人たちに「善意」という贈り物をし続けた。彼の座右の名は「一隅を照らす」だった。人の善意が相手の悪をも照らし、変えていく。彼もまたキリストにある愚者なのである。キリストにある愚者として、キリストの手紙として生きるように私たちは召されている。
-第二コリント3:3「あなたがたは、キリストが私たちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」。